禿鷹亭綺譚 -2ページ目

地底旅行

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「ちょっとちょっと。ちょっと聞いてよ、マスター!」大声張り上げながら入ってきたのは、その美しい顔立ちに似合わない三の線キャラで売る理穂だ。「あれ、ジェイさんも。ああ、もうそんな事はどうでも良いわ。聞いてよ、マスター!」
「理穂ちゃん、何なの、いったい?」いつのもの事とは言え、気押されるマスター。情けない。
「気にすんなよ、マスター。またどうせ新しい男がどうたらとかいう話しだろうよ」いつもの事だから俺も苦笑い。
「もうっ、そんなんじゃないわよ!」マジで怒ってやがる。「まあいいわ。マスター、取りあえず『Bass』をパイントで頂戴。」
「ゴメン、理穂ちゃん。『Bass』がもう切れちゃったんだよ」
「もうっ!相変わらず使えない人ね。じゃあ、もう何でも良いわ。取りあえずビール出してよ」差し出された『Heineken』を呑みながら語り出す理穂。「それがね、スゴい大変な事になったのよ。」
「失敗して、ハラんじまったか」
「茶々入れないで、ジェイさん」理穂は話の腰を折られるのが一番嫌い。「ちょうど一週間前の土曜の事なんだけど、国立大学で働いてる友だちのセッティングで合コンしようって事になったのよ。エリートってオタクぽいからどうかと思ったんだけど、どこに金の卵が眠っているかは分からないから、一応参加してみたのよ。せっかく夏だから河原でバーベキューでも、という話しになってね。そうねえ、集まったのは10人だったかな。ちょうど男女が半々ずつ。でもやっぱりトークが切れる男がいなくてね。もう帰ろうかなと思っていたら、アウトドア系みたいな『Mel Gibson』に似たイイオトコが河原を歩いてきたのよ。もちろんチャンスと思って声掛けたの。一緒にバーベキューしませんかってね。もうここは自給自足でいくしかないと思ってさ。いえ、そんな事はどうでも良いのよ。ちょっと蒸し暑かったけどビール呑むには最適で、みんなガンガン呑んでたのね。私も『Mel Gibson』と、いい雰囲気になってきてさ。今度二人きりで会おうよ、なんて言われちゃったのよ。いえっ、そんな事はどうでも良いの。そしたらね、国立大軍団の中に好奇心旺盛なリケイオトコがいてね、近くに変な建物見つけた、とか言って大はしゃぎしてるのよ。ホント男っていつまでたっても子供なんだよね。バカみたい。」
「なんだかよく分からないが、話しが長くなりそうなんでちょっとトイレにでも行って来ようかな」
「トイレなんかに行ってる場合じゃないわよ、ジェイさん!」自己中とは理穂の為にある言葉だな。まあ美人だから許そう。「よせばいいのに、みんなリケイオトコの話しに反応しちゃって、その建物を探検しようという事になっちゃったのよ。あと30分もあれば、『Mel Gibson』とキスくらいまでは行けたかも知れないのに。もうっ、思い出しただけでも腹が立つ!ああ、そんな事はどうでも良いの。川沿いの林の中に確かにその建物はあって、コンクリートで作られた窓も無い正方形になっててさあ、なんて言うかなあ・・・見た事はないんだけど防空壕の入口みたいな感じでさ。なんでこんなものに興味を持つのかって言いたいわよ、正直ね。緑に錆びきった鉄のドアがあってさ。あっ、でも鉄のドアなら赤く錆びるよね。という事は、あれは銅製のドアなのかなあ・・・。ま、それはどうでも良いんだけど、その分厚いドアが開いてたのよ。そこから中を覗いてみると、地下に降りていく階段があるのね。ものスゴく長いみたいでさ。その建物を見つけたリケイオトコは先に途中まで降りてみたみたいで、ずっと奥に薄暗い光が見えるとか言うのよ。建物の外側には照明一つ無いのに、中に光があるのはなにか変だろうって。別に変でもいいじゃないよねえ。あんたの人生とは何も関係ないんだしさ。こういう男に限って、好奇心だけで他の女に手を出したりするのよ。なんか、ムカつく!」
「まあまあ、落ち着いてよ、理穂ちゃん。」マスターが『Heineken』のお代わりを差し出す。「これは僕の奢り。なんだか面白い話しのような気がしてきたしね。」相変わらず商売下手。

人は、いや、動物は本能的に闇を恐れる。
それは太古の昔から遺伝子に刻まれてるのだそうだ。
だからこそ、人は本能的に闇に灯る光に吸い寄せられていく。
俺が毎夜飽きもせず酒場へと足が向かうのも、遺伝子に刻まれてるのだから仕方がない事なのだ。

「私は行きたくなかったのよ。ヤブ蚊も多そうだしね。でも『Mel Gibson』も乗り気になっちゃったのよ。そりゃあ彼が行くなら、当然私も行くでしょ。まあ、ある意味チャンスかも知れないと思ったし。だから男女ペアになって行こうって提案したわよ、わたし。で、『Mel Gibson』の腕にしがみつきながら、コンクリートの階段を降りていったのね。でも壁や天井はコンクリートで固められてなくて、土を掘ったままの状態なのよ。いつ生き埋めになってもおかしくないって思ったら、ちょっと背筋が冷えたわよ。外と違って中はヒンヤリしててね。たまに天井から露が落ちてきたり。ホント肝試しには最適な場所だと思うわ。不思議なんだけど、中には照明もないし外から光も入ってこないのに、ボーッと明るいの。リケイオトコが言うには、壁に発光キノコのようなものが生えていて光るんじゃないか、とか言ってたけどさ。10分ほど降りていったら、踊り場と言うか小部屋があって、そこにまた青サビのドアがあったの。巨大な南京錠で鍵が掛けられていたから、この小探検もここで終わりねって思って、わたし的にはちょっとホッとしたのよ。そしたらリケイオトコが、この南京錠は方程式を見つけたら開錠出来るかもとか言い出すのよ。たとえ開けれたってこの先に進んで何の意味があるのよって、ホント叫びたかったわよ、わたしは。」
「南京錠の方程式ってどういう事?」昔取った杵柄だ。「3桁とか4桁の数字合わせになってるヤツなら、俺も開けるの得意だぜ。あれは鍵に耳当てて音を聞きながら・・・」
「それじゃあ、ただのコソ泥じゃん。ジェイさんと一緒にしないで」失礼。いや、失礼なのは理穂。「そんなんじゃないのよ。鍵の側面に3列×3列の穴があって、その穴の周囲にはそれぞれ違う紋章と言うか、絵が描いてあるの。10分ほど考えてたリケイオトコは、これは帝国陸軍が使ってた暗号の変形版だ、とか言うのよ。彼は戦記マニアでもあるらしいのよね。理系ってオタクが多いからヤなんだよね。まあ、それは良いとして、よく見ると穴を囲むその紋章のように見えた絵は、八つの文字なのよ。カタカナぽいけど微妙に違うのよね。リケイオトコが言うには、わたしたちが使ってる普通のカタカナをある種の決め事に従って、線を加えたり減らしたりして暗号化しているらしいの。そう言われれば、確かにそういう風にも見える。で、彼が解読したところによると、横三列はそれぞれ天、地、人で、縦三列は善、凡、悪らしいの。だから天の善とか、人の悪とかいう感じで組合わさった文字が彫られてるらしいの。で、それに対応する何かを差し込めば、この鍵は開くはずだってリケイオトコが頬を紅潮させて喜んでるのよ。でもよく考えてみれば、素人が解読出来るレベルの暗号って簡易なもののはずじゃん。苦労して開けたところで、大したものは無いよって思ったけど、男連中が盛り上がっちゃってそれは言えなかったのよ。じゃあその穴に差し込むものは何かって事になるでしょう。皆でうーん、と考えていたら、リケイオトコがあれだっと叫んで指差したのが天井。この小部屋の天井には赤く錆び付いた鉄板が貼ってあってるんだけど、よく見ると四つの角と、角と角の間に大きなボルトがねじ込んであるの。そして鉄板の真ん中にもね。ちょうど南京錠の穴の数と一緒で、大きさもちょうどいいくらいに見える。目の良いリケイオトコにしか見えなかったんだけど、ボルトの頭の部分には仏像が彫られていたから気付いたらしいの。でも工具がなきゃ外せないし、だいたい外せたところでその鉄板が落ちてきちゃうじゃない。でも男共は意地でも外すとか言うのよ。もう勘弁してって感じでしょ。リケイオトコが『LEATHERMAN』っていうマルチプライヤー持ってるからこれで開けれるぞ、とか言うの。で、男たちが体育祭の組み体操みたいに自分たちの身体で台を作って、その上に乗ったリケイオトコが一つずつボルトを外していったの。もちろんわたしたち女性は、鉄板の下敷きになるのはイヤだから避難してたわよ。男たちは降ってくる赤サビで、顔も服もまっ赤っか。わたしの結婚願望が消えた瞬間ね。こんなに男ってバカだったとはさ。ああ、ちょっと話し疲れたわ。マスター、カレーでも作ってよ。」

『コンドル』のカレーは、一週間コトコト煮込みました、なんてなノリではない。
ポイントはみじん切りした大量のタマネギを、ギーで最低でも二時間かけてひたすら炒める事。
それにブレンダーにかけたフレッシュトマトとスパイスを加えて、最後に茹でたダールを。
簡単だが、これが最高に美味いのだ。

「結局の全部ボルトを外しても、鉄板は落ちてこなかったの。リケイオトコの読みが当たったのね」豪快に盛られた『コンドル』のカレーに、女の癖に大食いの理穂も満足した様子。「じゃあそのボルトをどういう配列で差し込んだら良いのかって事になるでしょう?最初は天井の配列通りに差し込んでみたの。どの辺を上に持ってくるかで四つのパターンがあって、全部試してみたんだよ。でも開かない。さすがのリケイオトコも悩んじゃった。そしたら『Mel Gibson』が俺に貸してごらん、とか言ってボルトを受け取ると、ボルトに描かれた仏像を見ながら、南京錠の穴にはめ込んだのよ。そしたら何と開いたのよ、その南京錠が!わたしスゴく驚いてさ。何で分かったの?って聞いたら、これは曼陀羅なんだよって言うの。だいたい曼陀羅って何よ?マスター知ってる?とにかく彼が言うには、天井にはめられてた時の配列は平和を守って大地を支える仏の配列で、南京錠の配列は、天変、地妖、疫病、戦乱を起こす事によって、その時の大地の支配者を一掃して新しい世界を造る配列だと言うの。なんなの、それ、いったい、って感じでしょ?まあ現在の支配者っていうのは、わたしたち人間の事らしいけどね。虫けらじゃあるまいし、そんな簡単に一掃されて溜まるもんですか。ねえ。」
「僕は個人的にジェイさんを一掃して欲しいなあ。だってこの人、この店ではまるで自分がオーナーのように振る舞うんだから。狙い撃ちの曼陀羅って無いの、理穂ちゃん?」こいつは絶対マジで言ってやがる。
「あはは、それ良いかもね」全然良くない。「それでその分厚い青サビのドアを、わたしが開けたのね。不思議な事にほとんど力を入れなくても開いたのよ。リケイオトコは、油圧かベアリングを利用してんだろうとか言ってたけどね。中に入ってみると、みんな思わず息をのんだの。壁や天井は石柱を並べて造られていて、見た感じは古墳のように見える。そしてその石柱にはいろんな仏様やら、訳分からない文様やらが描かれていたの。でも驚いたのはその事じゃない。部屋の中央に直径3メートルくらいの円形になった石のプールみたいのものがあって、張られた水が青く光って部屋全体を照らしているの。スゴく幻想的でね。この間、広告代理店の人とデートした時に行ったダイニングバーより、オシャレだったなあ。そのプールの底の真ん中には石で出来たマンホールの蓋みたいなものがあって、その回りには時計みたいに12個の黄色い円柱が立てられているの。そのマンホールの蓋を見た『Mel Gibson』が、異常な程に興奮しちゃってね。男ってヤツは、やっぱ穴にはすぐ反応するのかしら?ああっ、いけない、いけない。下ネタは封印してイイオンナになると、この間決めたばかりなのに。やっと見つけたぞ、とかブツブツ言ってる『Mel Gibson』を無視して、壁の暗号文字を見ていたリケイオトコがいきなり叫んだの。ヤバい、すぐにここを出なきゃヤバいぞって。彼が言うには、そこには『二号研究』と書かれてあったらしいの。それは第二次大戦中に帝国陸軍が秘密裏に進めてた、原爆の研究開発プロジェクトらしいのね。そこから推察すると、ここは秘密の研究施設跡だろうって。そして水に沈められた黄色い円柱は、焼き固めたウランだってね。発光キノコか何かと思っていた階段の明かりも、放射性物質を利用してたんだろうって。もうみんな固まったわよ。パニックとはまさにこの事って感じで、ワアワア、キャアキャア言いながら、みんな我先に逃げ出したの。もちろん、わたしもすぐに逃げようとしたんだけど、『Mel Gibson』がその場も離れようともせずに一人笑ってるの。恐怖で気が触れたのかと思ったわよ。彼は、この水の底の入口の先には、新世界があるんだ、僕はそこへ行く、なんて言うのよ。何バカな事言ってるの、早く逃げましょうって手を引っ張ったんだけど、振り切られちゃった。そして彼は水の中へ入っていってしまった。もう付き合いきれないから、わたしはそのまま逃げたんだけどね。」
「な、なんかスゴい話しだね」マスターの顔が青ざめている。「ちょっと寒くなってきたからクーラー切るね。」臆病者なのもマスターのキャラだ。
「階段がとても長く感じたんだよね」そりゃそうだろう。「やっとの事で外に出たわたしたちは、河原に置かれたバーベキューセットやら何やらを置き去りにして、車に乗り込んだの。リケイオトコの働く大学に向かう為にね。でもね、大学病院でみんな見て貰ったんだけど、放射能障害の兆候は一切無いと言われたのよ。リケイオトコが自分の研究室から持ってきたガイガーカウンターっていう放射能を調べる機械で、皆の身体を計測してみてもやはり放射能は確認出来なかったの。まあ良かったんだけど、ではあの青い光は何なのよって感じよね。でもその時はそんな事考えてる余裕もないし、みんな精神的にヘトヘトになってしまったから取りあえず解散したのよ。」
「気になるのは、その『Mel Gibson』がどうなったか、という事だよね」
「うん。もちろんわたしも気になっていた。バーベキューの後片づけもしなきゃいけなかったんだけど、女性陣はもうあの場所には行きたくないって言うの。まあ、当然よね。わたしもそう。結局色々気になる事があるからって、リケイオトコが次の日に一人でその場所に戻ったの。そしたら、なんとね・・・」
「何なのよ!?」オネエ言葉になってるマスター。よほど肝を冷やしたみたい。
「その建物が無くなっていたの。正確に言えば地中に沈んでいたのね。リケイオトコが乗ってきた四駆に取り付けてあったシャベルで建物があった場所を掘ってみたら、その建物の屋根らしきコンクリートにぶち当たったらしいのよ。土を退けてみるとその屋根にはやはり曼陀羅が描かれていたらしいの。もっと詳しく調べたかったらしいけど、結構早い速度で沈下し続けてるらしいのよ、その建物が。だから危険だし、仕方なく断念したらしいのね。彼が言うには、ボルトを外した事による物理的な沈下かも知れないし、それ以外の理解不可能な力が働いてるのかも知れないとも言ってた。」
「じゃあ『Mel Gibson』は、その建物と一緒に地底に沈んじゃったの?」オネエ言葉が直らないマスター。
「それからね、戦記に強いリケイオトコが、『二号研究』やら帝国陸軍にまつわる噂を徹底的に調べたらしいのよ。そして彼から今日電話が掛かってきて、彼なりの推論を聞いたのよ。当時帝国陸軍には、法華経を過激に解釈する青年将校を中心としたカルト集団があったらしいのね。その一派は、どうやら『二号研究』に関わっていた陸軍航空技術研究所にもいたらしいの。『二号研究』自体は秘密裏だったとはいえ、軍の承認の元に行われてたんだけど、研究所内のカルトメンバーが何らかの目的で研究資料やら研究設備、ウランなんかを持ち出したんじゃないかって。その目的は、たぶん『世界征服』だろうとも言ってた。そんなショッカーじゃあるまいし、わたしたちが聞いたらまるでバカバカしい話しだけど、これに似たような話しも以前あったしね。そのカルト集団は日本の敗戦と共に消滅したらしいんだけど、実際のところは分かっていないの。だから、実は今も地下で活動している可能性も考えられる訳よ。彼が言うには、『Mel Gibson』もそのメンバーだったんじゃないかってね。彼なりにその『聖地』を調べてた時に、偶然わたしたちと会ったのかも知れないね。だから・・・だから彼にとっては、たとえ地中深く沈んでしまっても、幸せだったのかも知れない。」
「気になるのはそのマンホールの下に何があったか、という事だよね」
「うん。でもね、もうこれ以上その事に関しては関わりたくないのよ」そりゃそうだろう。「それに今のわたしは忙しくて、そんなヒマもないし」
「仕事が忙しいの?」
「いえ、新しい彼が出来たのよ」
「えっ、誰。僕の知ってる人?」
「そのリケイオトコくんなの」
「ええっ!?」
「ルックスはともかくアタマは抜群に良いし、それに今回の件でなんだか親近感感じちゃったしね。あっ、もう約束の時間に遅れちゃう。今から彼とデートなのよ。じゃあね、マスターとジェイさん!」置き去りにされた俺たち二人。

まだ聞きたい事は幾つもあったけど、蒸し暑い夜を涼しくしてくれた理穂に感謝しながら、呑み直す事にでもしようか。

センチメンタル・クラリネット

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「またここで呑んでいたんだね、ジェイ」ガラスのはめられたドアを開けるなり、毒を吐くのは哲さんだ。「その年でいつも一人だから、ゲイと思われてるよ、君は。僕の尻でも貸してやろうか?」
「勘弁してくださいよ、哲さん」今夜は防戦一方になりそうな気が。「もし俺がゲイだったとしても相手を選ぶ権利くらいあるでしょ」
「少なくとも君にはないな。そりゃあ、色男の言うセリフだよ」それはお互い様。「まあ、せっかくだから僕の晩酌に付き合わせてやろう。感謝しなさい。」
「そりゃあ、どうも」苦笑いするしかない。「しかし何です、その大工道具みたいな箱は?」
「相変わらず頭の悪い事を言うな、君は。これはクラリネットケースだ」そうか、哲さんは大学時代は吹奏楽団のコンサートマスターだった。「感性がゼロ、いやマイナスの君には分からんだろうが、これは僕の命の次に大切なものなんだよ。焼酎の空瓶を大切に抱えてる君とは、そもそも人間としてのレベルが違う。」
「えらい言われ様だな」だけど的を得てるかも知れない「でも今でもそのクラリネットを吹いてるんですか?いつも呑んだくれてて、そんなヒマは無いように思えるんだけど」
「いやいや、凡人の君とは違って練習なんかしなくても、いつでも素敵な音を出せるんだよ、僕は」確かに哲さんは才能豊かな人だ。多少下品ではあるけど。「だけどこのクラリネットには、艶っぽい話しのまったくない君には分からない深い物語があるんだよ。」
「なんだか面白くなってきそうですね」相変わらずミーハーなマスターが、『OLD SPECKLED HEN』を差し出した。『MG』ファンの哲さんには最適なビールだ。「一杯奢るから、僕にもその艶っぽい話しを聴かせてくださいよ。」そして相変わらず商売下手。

「マスター、このクラリネット、幾らくらいすると思う?」ケースから取り出したクラリネットは磨き込まれて黒光りしている。
「そうですねえ。10万くらいかな?」
「バカを言わないでよ。それはこの店の月間利益だろう」冗談に思えない。「これは『BUFFET CRAMPON』の『RC』という名品で、これ一本でジェイのオンボロ車以上の値段はする」余計な世話だ。
「だけど何で哲さんが、そんなに高級なクラリネットを買えたのですか?大学時代は苦学生だったって前に聞いた気がするけど」そうそう、確か俺もそう聞いた気がする。
「質屋だ。いや、厳密に言えば質屋の前」俺も若い頃にはよく世話になったけど・・・でも質屋の前って?
「まさか、店の前で拾ったとでも言うんじゃないでしょうね」マスターがヘラヘラ笑う。
「何を言う。いや、そうかも知れんな」哲さんが遠い目に。「あれは僕が四回生の頃だった。メシ代稼ぐ為に後輩集めて麻雀でもしようと思って、安く雀稗を手に入れる為に質屋に行ったんだよ。そう、今の季節だったかな。桜吹雪の美しい昼下がりだった。そしたらその質屋の前で佇んでいる若い女性がいた。彼女はとっても綺麗で、思わず立ちつくしちまったくらいだ。そして彼女をよく見ると、その手にクラリネットケースを持っていた。」
「それがこのクラリネットなんですね」切ない話しの予感がする。こんな時はあの酒だ。「マスター、ピンクジンを。ジンは『PLYMOUTH NAVY STRENGTH』で、リンスなんてかったるい事せずに『ANGOSTURA BITTERS』を思い切りダッシュして。」
「オンザロックで、でしょ」ジン&ビターズか。その方が気分かも。「呑んだくれのジェイさんには、ショートグラスは似合わないですよ。僕もシェイカー振るのは面倒臭いし。」なんてヤツ。
「じゃあ僕もそれを貰おうか」いつも明るい哲さんが、驚くくらいしんみりと話し始めた。「クラリネット吹きの僕は当然興味津々だったから、質屋の中に入ろうとしない彼女に声を掛けてみた。思い入れのあるクラリネットみたいだけど、急に大金が必要になったみたいで質草にしようと思ったらしい。詳しい訳を聞こうとしたんだけど、会ったばかりの僕にそんな話しをするはずが無いのは当然だな。でも僕もクラリネット吹きの端くれだから、こんなに素晴らしい品が質屋に流れるのが許せなかった。いや、それだけじゃない。僕には彼女の瞳の奥に、深い悲しみが見えた気がしたんだ。だから・・・僕が代わりに質屋に入ったんだよ。」
「どういう事です?」マスターがいつものように呑みに入っている。
「いつも肩身離さず身に付けていた爺さんの形見の『ROLEX』を質草に入れたのさ。それでジャスト30万引っ張れた。それを彼女に渡したんだよ。もちろん彼女は驚いて何度も断ったけど、無理矢理受け取らせた。で、代わりにこのクラリネットを僕が預かったんだ。」
「それって哲さんが又貸ししただけじゃないですか」
「何も分かってないな、マスター。僕は質屋じゃないから、彼女が金を返す事が出来なくても質流れになる事はない。その時は僕の『ROLEX』が流れるだけだ。形見ではあるけど、僕には何の思い入れもなかったしね。彼女にとっての、このクラリネットの方がとても大切な物のように思えたんだよ。」
「で、そこから恋が芽生えたんですか?」ワクワクするマスター。
「僕は人助けを道具に使ったりしない。そのまま名前も聞かずに別れたよ。もし金を返せるようになったら、当時僕の行きつけだった楽器屋にこのクラリネットを預けておくから、金は店のオヤジに渡しといてくれと言ってね。」

カウンターに飾ってあった桜の枝から、花びらを一枚取ってグラスに入れてみた。
ほろ苦いジン&ビターズにゆらゆらと浮かぶ桜。
ただその切なくも美しい様を見ているのが良いのか、それとも一気に呑み干してしまうのが良いのか。

「それで結局彼女はお金を返しに来たんですか?」
「いや、残念ながら彼女は楽器屋には来なかった。貸した金はあげたつもりだったから期待はしてなかったし、彼女にも色々事情があったかも知れないし。でも正直に言えば少し残念だったのも事実だけど。いや、金の事だけじゃなくて、たった一回だけの出会いだけど僕も彼女に惹かれてたんだろうな。あの深く吸い込まれるような瞳に。」
「それはいつものように哲さんの女好きが出ただけの話しかも知れませんが、ちょっと悲しい話しですね」女に裏切られっぱなしのマスターにはよく分かるだろう。「あ、でもよく考えてみれば、代わりにその高価なクラリネットが手に入った訳ですね。ある意味儲けた訳じゃないですか。」
「いやいや、最後まで話しを聞けよ」苦笑いしながら哲さんが言う。「このクラリネットには、持ち主のネームが彫られていて、実は盗品だったんだ。」
「ええっ」またマスターの目が輝く。
「そう、関西を本拠地にしているオーケストラのクラリネット奏者のものだった。警察から楽器屋に情報が回ってきて盗品だと分かったんだ。その時は僕も警察で取り調べを受けたりして大変だったんだよ。泥棒の肩担ぎしたみたいでしばらく落ち込んだし、迷惑掛けちまった楽器屋のオヤジともそれが原因で不仲になってしまった。」
「そうでしょうね・・・。しかし恩を仇で返すとはヒドい女だ」マスターが義憤に燃えている。こういう単純なところが彼の魅力ではあるのだが。
「まあ、僕が勝手に好意を押しつけただけだから仕方がないんだけどね」哲さんは既にジン&ビターズを三杯目だ。「だけどそれからちょうど20年後の事だ。大学を卒業して就職の為に街を離れた僕は、幸せな家族も出来てがむしゃらに働き続けた。その結果やっとノンビリ出来る立場を得て、ふと思いついて大学時代を過ごした街に行ってみたんだ。イヤな思い出と共に封印していたあの街に。そしてその楽器屋にも寄ってみた、もう普通に話せるだろうと思ってね。」
「人の噂も75日って言いますからね」マスター、それはちょっと違う気がする。
「そこで久々に再会した楽器屋のオヤジから、事の全てを知らされたんだ」いつも陽気な哲さんが寂しげに見える。「僕がこの街を離れた後に、彼女は楽器屋に金を返しに来たんだ。本当はもっと早くに返すべきだったけど、そう出来ない事情があったんだよ。実は彼女はこのクラリネットの持ち主のいわゆる愛人だったらしい。当時でも既に老齢だったクラリネット奏者は音大の教授もしていて、彼女はその大学の事務員だった。早くに両親を亡くし天涯孤独の身だった彼女は、彼から見ても暗い影があったんだろうな。でも、いつも一生懸命な彼女に少しでも援助出来たら良いと考えたみたいで、自分の雑務を任せたんだ。最初は人助けのつもりだったみたいだが、そのうちそれが本当の愛情に変わっていった訳だ。年は親子以上に違うのだけど。」
「事情は分かるけど感心しないな、僕は」女に振り回されっぱなしのマスターには言う資格がないと思う。
「まあ、確かに健全ではないかも知れないね」健全ではなくとも人は何故、許されざる恋へと落ちていくのだろう?「彼は高名ではあったけど、プレーヤーとしては年齢的に限界だった。そのうえ脳卒中で倒れてしまった。有名であるが故の、長年溜まったストレスのせいだろうね。一命は取り留めたのだが、植物人間状態になってしまった。そして悪い事に彼が倒れたのは彼女の家だったんだ。良家育ちでプライドの高い奥方は激怒して、当然のように離婚。例え植物人間でも自業自得だとね。そして彼は無一文。資産管理は日頃から奥方の仕事で、家屋財産は元々全て奥方名義になっていたからね。彼はクラリネット一本あれば、いつでもどこでも食っていける自信があったんだろう。だから彼の唯一の財産がこの『BUFFET CRAMPON』だったんだよ。だけど現役の引退を決めていた彼は、倒れる前に彼女にこの『BUFFET CRAMPON』を贈った。自分が君に贈れるものはこれだけだからと言ってね。」
「プレーヤーにとって大切なものだったでしょうに。彼女の事を本当に愛していたんですね」
「うん、そうだろうね。彼女は楽器は演奏出来ないけど、死ぬまで自分の側に置いておこうと心に誓ったそうだ。しかし二人の関係が発覚して、奥方が入金をストップしてしまったので、収入が無くなってしまった。だけど莫大に掛かる医療費。彼女は幾つも仕事を掛け持ちして頑張ったけど、それでも追いつかない。それでツラい選択だったろうが、このクラリネットを質に入れようと考えたんだよ。」
「事情も分からずに批判した僕が恥ずかしい・・・」反省が生きれば良いが。「でも、なんでそれが盗品になるんですか?彼から正当に貰ったプレゼントじゃないですか」
「実際はそうなんだけどね。奥方も、彼が愛してやまないこのクラリネットの事はよく覚えていた。それを彼女に贈った事が許せなかったのだろうね。そして警察に盗難届を出した訳だ。」
「そんな・・・」
「でも彼女は警察に事実を主張する事なく罪を受け入れたんだよ。ちょうどその頃、彼が亡くなって自暴自棄になってたのかも知れないし、無実を主張する事によって事実が世間の知るところになって彼の晩節を汚したくなかったのかも知れない。もちろん初犯だから執行猶予が付いたんだけど、身寄りのない彼女だから保護司が付く事になった。保護司の紹介で勤めた革靴工場で金を貯めて、遅ればせながら楽器屋に金を返しに来たんだよ。土下座して返済が遅れた事を何度も詫びる彼女を見ている方がツラかったと、楽器屋のオヤジが言っていた。」
「彼女は何も悪くないのに」自分の事でもないのにマスターが熱くなって、ガンガンとビールを煽ってる「許せないのは、その元妻のババアですね。」
「でもね、その奥方も根っから腐ってた訳じゃなかったんだよ」哲さんが氷だけになったオールドファッションドグラスをカラカラと回す。「金を返しに来てから一年くらい経った後に、彼女が再び楽器屋を訪れた。彼女にその訳を聞くと、執行猶予期間が終わったその日に、奥方から小包が届いたらしい。その小包にはこの『BUFFET CRAMPON』が収められたクラリネットケースが入っていた。添えられた奥方の手紙には「貴方も私と同じように苦しみました。このクラリネットは貴方に持つ資格があります」と書いてあったそうだよ。彼女は何度も何度もその手紙に向かって頭を下げた。もちろん結果として彼女に前科まで付けてしまった奥方の行為は許されないかも知れないけど、奥方だって長年連れ添ってきた伴侶を何の非もないのに奪われてしまった訳だから、一方的に僕ら第三者が軽々しく批判なんて出来やしないよ。」
「ホント僕って、ものの見方が浅はかな事を痛感します・・・」小さくなるマスター。

開け放たれたガラス窓から、爽やかな風が入ってきた。
鼻をくすぐる穏やかな春の匂い。
ここら辺は薄汚れた繁華街なのに、どこから吹いてきたのだろう?
いや、オレの心が薄汚れてただけで、機微を感じ取る事が出来なかっただけかも知れない。

「そして彼女はこのクラリネットを楽器屋のオヤジに預けていったんだよ。一度はこのクラリネットと一緒に生きていこうと決めた彼女だったが、本来楽器は演奏されてナンボのもの。それならば苦しい時に助けてくれた僕に使って貰いたいとね。だけど僕はずっと音信不通だったから、そのまま楽器屋で大切に保管されてたんだよ。そして今日、楽器屋のオヤジからこのクラリネットを受け取ったんだ。」
「20年目の再会なんですね」ジン&ビターズの苦みが、とても爽やかに感じるのは何故だろう?「哲さんのクラリネット、朝まで聴いてみたいですね。」
「もちろん僕もそのつもりさ。でも僕は今じゃディキシー専門だから、初代オーナーに叱られるかもな」
「いえ、そのクラリネットも新しいパートナーを得て喜んでますよ。例え初代オーナーに技量は足りなくともね」
「ジェイは相変わらずクチの減らないヤツだな。じゃあまずは『When The Saints Go Marching In』からでも・・・」

こんな気持ちの良い春の夜には、楽しげで明るい哲さんのクラリネットがよく似合う。