センチメンタル・クラリネット | 禿鷹亭綺譚

センチメンタル・クラリネット

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「またここで呑んでいたんだね、ジェイ」ガラスのはめられたドアを開けるなり、毒を吐くのは哲さんだ。「その年でいつも一人だから、ゲイと思われてるよ、君は。僕の尻でも貸してやろうか?」
「勘弁してくださいよ、哲さん」今夜は防戦一方になりそうな気が。「もし俺がゲイだったとしても相手を選ぶ権利くらいあるでしょ」
「少なくとも君にはないな。そりゃあ、色男の言うセリフだよ」それはお互い様。「まあ、せっかくだから僕の晩酌に付き合わせてやろう。感謝しなさい。」
「そりゃあ、どうも」苦笑いするしかない。「しかし何です、その大工道具みたいな箱は?」
「相変わらず頭の悪い事を言うな、君は。これはクラリネットケースだ」そうか、哲さんは大学時代は吹奏楽団のコンサートマスターだった。「感性がゼロ、いやマイナスの君には分からんだろうが、これは僕の命の次に大切なものなんだよ。焼酎の空瓶を大切に抱えてる君とは、そもそも人間としてのレベルが違う。」
「えらい言われ様だな」だけど的を得てるかも知れない「でも今でもそのクラリネットを吹いてるんですか?いつも呑んだくれてて、そんなヒマは無いように思えるんだけど」
「いやいや、凡人の君とは違って練習なんかしなくても、いつでも素敵な音を出せるんだよ、僕は」確かに哲さんは才能豊かな人だ。多少下品ではあるけど。「だけどこのクラリネットには、艶っぽい話しのまったくない君には分からない深い物語があるんだよ。」
「なんだか面白くなってきそうですね」相変わらずミーハーなマスターが、『OLD SPECKLED HEN』を差し出した。『MG』ファンの哲さんには最適なビールだ。「一杯奢るから、僕にもその艶っぽい話しを聴かせてくださいよ。」そして相変わらず商売下手。

「マスター、このクラリネット、幾らくらいすると思う?」ケースから取り出したクラリネットは磨き込まれて黒光りしている。
「そうですねえ。10万くらいかな?」
「バカを言わないでよ。それはこの店の月間利益だろう」冗談に思えない。「これは『BUFFET CRAMPON』の『RC』という名品で、これ一本でジェイのオンボロ車以上の値段はする」余計な世話だ。
「だけど何で哲さんが、そんなに高級なクラリネットを買えたのですか?大学時代は苦学生だったって前に聞いた気がするけど」そうそう、確か俺もそう聞いた気がする。
「質屋だ。いや、厳密に言えば質屋の前」俺も若い頃にはよく世話になったけど・・・でも質屋の前って?
「まさか、店の前で拾ったとでも言うんじゃないでしょうね」マスターがヘラヘラ笑う。
「何を言う。いや、そうかも知れんな」哲さんが遠い目に。「あれは僕が四回生の頃だった。メシ代稼ぐ為に後輩集めて麻雀でもしようと思って、安く雀稗を手に入れる為に質屋に行ったんだよ。そう、今の季節だったかな。桜吹雪の美しい昼下がりだった。そしたらその質屋の前で佇んでいる若い女性がいた。彼女はとっても綺麗で、思わず立ちつくしちまったくらいだ。そして彼女をよく見ると、その手にクラリネットケースを持っていた。」
「それがこのクラリネットなんですね」切ない話しの予感がする。こんな時はあの酒だ。「マスター、ピンクジンを。ジンは『PLYMOUTH NAVY STRENGTH』で、リンスなんてかったるい事せずに『ANGOSTURA BITTERS』を思い切りダッシュして。」
「オンザロックで、でしょ」ジン&ビターズか。その方が気分かも。「呑んだくれのジェイさんには、ショートグラスは似合わないですよ。僕もシェイカー振るのは面倒臭いし。」なんてヤツ。
「じゃあ僕もそれを貰おうか」いつも明るい哲さんが、驚くくらいしんみりと話し始めた。「クラリネット吹きの僕は当然興味津々だったから、質屋の中に入ろうとしない彼女に声を掛けてみた。思い入れのあるクラリネットみたいだけど、急に大金が必要になったみたいで質草にしようと思ったらしい。詳しい訳を聞こうとしたんだけど、会ったばかりの僕にそんな話しをするはずが無いのは当然だな。でも僕もクラリネット吹きの端くれだから、こんなに素晴らしい品が質屋に流れるのが許せなかった。いや、それだけじゃない。僕には彼女の瞳の奥に、深い悲しみが見えた気がしたんだ。だから・・・僕が代わりに質屋に入ったんだよ。」
「どういう事です?」マスターがいつものように呑みに入っている。
「いつも肩身離さず身に付けていた爺さんの形見の『ROLEX』を質草に入れたのさ。それでジャスト30万引っ張れた。それを彼女に渡したんだよ。もちろん彼女は驚いて何度も断ったけど、無理矢理受け取らせた。で、代わりにこのクラリネットを僕が預かったんだ。」
「それって哲さんが又貸ししただけじゃないですか」
「何も分かってないな、マスター。僕は質屋じゃないから、彼女が金を返す事が出来なくても質流れになる事はない。その時は僕の『ROLEX』が流れるだけだ。形見ではあるけど、僕には何の思い入れもなかったしね。彼女にとっての、このクラリネットの方がとても大切な物のように思えたんだよ。」
「で、そこから恋が芽生えたんですか?」ワクワクするマスター。
「僕は人助けを道具に使ったりしない。そのまま名前も聞かずに別れたよ。もし金を返せるようになったら、当時僕の行きつけだった楽器屋にこのクラリネットを預けておくから、金は店のオヤジに渡しといてくれと言ってね。」

カウンターに飾ってあった桜の枝から、花びらを一枚取ってグラスに入れてみた。
ほろ苦いジン&ビターズにゆらゆらと浮かぶ桜。
ただその切なくも美しい様を見ているのが良いのか、それとも一気に呑み干してしまうのが良いのか。

「それで結局彼女はお金を返しに来たんですか?」
「いや、残念ながら彼女は楽器屋には来なかった。貸した金はあげたつもりだったから期待はしてなかったし、彼女にも色々事情があったかも知れないし。でも正直に言えば少し残念だったのも事実だけど。いや、金の事だけじゃなくて、たった一回だけの出会いだけど僕も彼女に惹かれてたんだろうな。あの深く吸い込まれるような瞳に。」
「それはいつものように哲さんの女好きが出ただけの話しかも知れませんが、ちょっと悲しい話しですね」女に裏切られっぱなしのマスターにはよく分かるだろう。「あ、でもよく考えてみれば、代わりにその高価なクラリネットが手に入った訳ですね。ある意味儲けた訳じゃないですか。」
「いやいや、最後まで話しを聞けよ」苦笑いしながら哲さんが言う。「このクラリネットには、持ち主のネームが彫られていて、実は盗品だったんだ。」
「ええっ」またマスターの目が輝く。
「そう、関西を本拠地にしているオーケストラのクラリネット奏者のものだった。警察から楽器屋に情報が回ってきて盗品だと分かったんだ。その時は僕も警察で取り調べを受けたりして大変だったんだよ。泥棒の肩担ぎしたみたいでしばらく落ち込んだし、迷惑掛けちまった楽器屋のオヤジともそれが原因で不仲になってしまった。」
「そうでしょうね・・・。しかし恩を仇で返すとはヒドい女だ」マスターが義憤に燃えている。こういう単純なところが彼の魅力ではあるのだが。
「まあ、僕が勝手に好意を押しつけただけだから仕方がないんだけどね」哲さんは既にジン&ビターズを三杯目だ。「だけどそれからちょうど20年後の事だ。大学を卒業して就職の為に街を離れた僕は、幸せな家族も出来てがむしゃらに働き続けた。その結果やっとノンビリ出来る立場を得て、ふと思いついて大学時代を過ごした街に行ってみたんだ。イヤな思い出と共に封印していたあの街に。そしてその楽器屋にも寄ってみた、もう普通に話せるだろうと思ってね。」
「人の噂も75日って言いますからね」マスター、それはちょっと違う気がする。
「そこで久々に再会した楽器屋のオヤジから、事の全てを知らされたんだ」いつも陽気な哲さんが寂しげに見える。「僕がこの街を離れた後に、彼女は楽器屋に金を返しに来たんだ。本当はもっと早くに返すべきだったけど、そう出来ない事情があったんだよ。実は彼女はこのクラリネットの持ち主のいわゆる愛人だったらしい。当時でも既に老齢だったクラリネット奏者は音大の教授もしていて、彼女はその大学の事務員だった。早くに両親を亡くし天涯孤独の身だった彼女は、彼から見ても暗い影があったんだろうな。でも、いつも一生懸命な彼女に少しでも援助出来たら良いと考えたみたいで、自分の雑務を任せたんだ。最初は人助けのつもりだったみたいだが、そのうちそれが本当の愛情に変わっていった訳だ。年は親子以上に違うのだけど。」
「事情は分かるけど感心しないな、僕は」女に振り回されっぱなしのマスターには言う資格がないと思う。
「まあ、確かに健全ではないかも知れないね」健全ではなくとも人は何故、許されざる恋へと落ちていくのだろう?「彼は高名ではあったけど、プレーヤーとしては年齢的に限界だった。そのうえ脳卒中で倒れてしまった。有名であるが故の、長年溜まったストレスのせいだろうね。一命は取り留めたのだが、植物人間状態になってしまった。そして悪い事に彼が倒れたのは彼女の家だったんだ。良家育ちでプライドの高い奥方は激怒して、当然のように離婚。例え植物人間でも自業自得だとね。そして彼は無一文。資産管理は日頃から奥方の仕事で、家屋財産は元々全て奥方名義になっていたからね。彼はクラリネット一本あれば、いつでもどこでも食っていける自信があったんだろう。だから彼の唯一の財産がこの『BUFFET CRAMPON』だったんだよ。だけど現役の引退を決めていた彼は、倒れる前に彼女にこの『BUFFET CRAMPON』を贈った。自分が君に贈れるものはこれだけだからと言ってね。」
「プレーヤーにとって大切なものだったでしょうに。彼女の事を本当に愛していたんですね」
「うん、そうだろうね。彼女は楽器は演奏出来ないけど、死ぬまで自分の側に置いておこうと心に誓ったそうだ。しかし二人の関係が発覚して、奥方が入金をストップしてしまったので、収入が無くなってしまった。だけど莫大に掛かる医療費。彼女は幾つも仕事を掛け持ちして頑張ったけど、それでも追いつかない。それでツラい選択だったろうが、このクラリネットを質に入れようと考えたんだよ。」
「事情も分からずに批判した僕が恥ずかしい・・・」反省が生きれば良いが。「でも、なんでそれが盗品になるんですか?彼から正当に貰ったプレゼントじゃないですか」
「実際はそうなんだけどね。奥方も、彼が愛してやまないこのクラリネットの事はよく覚えていた。それを彼女に贈った事が許せなかったのだろうね。そして警察に盗難届を出した訳だ。」
「そんな・・・」
「でも彼女は警察に事実を主張する事なく罪を受け入れたんだよ。ちょうどその頃、彼が亡くなって自暴自棄になってたのかも知れないし、無実を主張する事によって事実が世間の知るところになって彼の晩節を汚したくなかったのかも知れない。もちろん初犯だから執行猶予が付いたんだけど、身寄りのない彼女だから保護司が付く事になった。保護司の紹介で勤めた革靴工場で金を貯めて、遅ればせながら楽器屋に金を返しに来たんだよ。土下座して返済が遅れた事を何度も詫びる彼女を見ている方がツラかったと、楽器屋のオヤジが言っていた。」
「彼女は何も悪くないのに」自分の事でもないのにマスターが熱くなって、ガンガンとビールを煽ってる「許せないのは、その元妻のババアですね。」
「でもね、その奥方も根っから腐ってた訳じゃなかったんだよ」哲さんが氷だけになったオールドファッションドグラスをカラカラと回す。「金を返しに来てから一年くらい経った後に、彼女が再び楽器屋を訪れた。彼女にその訳を聞くと、執行猶予期間が終わったその日に、奥方から小包が届いたらしい。その小包にはこの『BUFFET CRAMPON』が収められたクラリネットケースが入っていた。添えられた奥方の手紙には「貴方も私と同じように苦しみました。このクラリネットは貴方に持つ資格があります」と書いてあったそうだよ。彼女は何度も何度もその手紙に向かって頭を下げた。もちろん結果として彼女に前科まで付けてしまった奥方の行為は許されないかも知れないけど、奥方だって長年連れ添ってきた伴侶を何の非もないのに奪われてしまった訳だから、一方的に僕ら第三者が軽々しく批判なんて出来やしないよ。」
「ホント僕って、ものの見方が浅はかな事を痛感します・・・」小さくなるマスター。

開け放たれたガラス窓から、爽やかな風が入ってきた。
鼻をくすぐる穏やかな春の匂い。
ここら辺は薄汚れた繁華街なのに、どこから吹いてきたのだろう?
いや、オレの心が薄汚れてただけで、機微を感じ取る事が出来なかっただけかも知れない。

「そして彼女はこのクラリネットを楽器屋のオヤジに預けていったんだよ。一度はこのクラリネットと一緒に生きていこうと決めた彼女だったが、本来楽器は演奏されてナンボのもの。それならば苦しい時に助けてくれた僕に使って貰いたいとね。だけど僕はずっと音信不通だったから、そのまま楽器屋で大切に保管されてたんだよ。そして今日、楽器屋のオヤジからこのクラリネットを受け取ったんだ。」
「20年目の再会なんですね」ジン&ビターズの苦みが、とても爽やかに感じるのは何故だろう?「哲さんのクラリネット、朝まで聴いてみたいですね。」
「もちろん僕もそのつもりさ。でも僕は今じゃディキシー専門だから、初代オーナーに叱られるかもな」
「いえ、そのクラリネットも新しいパートナーを得て喜んでますよ。例え初代オーナーに技量は足りなくともね」
「ジェイは相変わらずクチの減らないヤツだな。じゃあまずは『When The Saints Go Marching In』からでも・・・」

こんな気持ちの良い春の夜には、楽しげで明るい哲さんのクラリネットがよく似合う。