アネモネの涙 | 禿鷹亭綺譚

アネモネの涙

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「人を愛しすぎるとアタマがイカれてしまったりするもんなんですかねえ?」などとホザく青年の名は浩紀。一昔前の少女マンガで、主人公の憧れの先輩役で出てきそうな優しげな目元のナイスガイ。
「女の子と何か良い事でもあったの、浩紀くん?」マスターがニヤニヤしながら興味深げ。
「実はですねえ。俺、今まで黙ってたけど、アニーと付き合ってるんですよ」悩み、と言いつつ、どこか誇らしげ。
「ええっ!アニーちゃんと付き合ってるの!僕、大好きだったのに・・・」半泣きのマスター。「ヒドいよ、浩紀くん。僕に黙ってお客さんに手を出しちゃうなんて」
「すいません、マスター」恐縮しきりの浩紀。「先月のマスターの誕生日に常連客が『コンドル』に集まったじゃないですか。マスターは酔いつぶれてたし、ジェイさんはフラリとどこかにいなくなってしまったし。最後まで残ってたのは俺とアニーだけで、酔いのせいでなんだか盛り上がってしまって。いや、そういう言い方は良くありませんね。前からアニーを気に入ってたのは事実だし。それからの事ですから、まだ一ヶ月ちょいくらいなんですけどね。」
「じゃあ、僕の寝ている横でキスなんかしちゃった訳だね。なんて事を・・・。」既に自我が崩壊しているな。
「まあ、落ち着けよマスター。あんたがアニーを好きだったなんて話しは俺だって知らなかったし、本人同士が好き合ってしまったらもう仕方がないぜ。だいたいどちらにしても、マスターのあんたが客に手を出すのは御法度だろうが」そう言いつつも喉の奥に苦いものが上がってきた。何故って?それは俺もセクシャリティ溢れる魅力的なアニーに惹かれていたから。
「俺、本当にアニーに夢中になっちゃってて、もう一日中彼女の事ばかり考えてるんですよ。いい年して我ながら情けないとは思うんですけどね」いや、彼女に限ってはそうだと思う。「ただ、最近どうも腑に落ちない事があってですね。それを考え出すと何も手が着かなくなっちゃって。」
「それはただの色ボケだ!あんなに綺麗な子を彼女にしておいて、自慢げに悩みなんか語らないでよ!」男の嫉妬は見苦しいぞ、マスター。
「もういいから、あんたは黙ってろ」だけど俺だって心にモヤモヤしたものがあるのは事実だが。「その腑に落ちない事ってヤツを説明して見ろよ。」
「一人の人間が二人になる、って言って、意味が分かりますか?」少し薄気味悪いが、プラナリアのようなものか?「二重人格、いや、ドッペルゲンガー、いや、狼男、いや、うーん、なんて言ったら良いのだろう。要するに、男が女に、女が男に変身するんです。」
「なんだか訳が分からないが、オモシロそうな話しだからこれを呑めよ」カウンターに置いてある『OUZO』のボトルを浩紀に渡した。「グラスに注いで水で割れ。」
「うわっ、透明の酒が白くなっていく!スゴい」
ギリシャのアニス系リキュールである『OUZO』は透明な酒なのだが、加水すると白濁する。水分の比率が上がると、アルコールに溶け込んでいたハーブオイルが膜を張り、乱反射して白くなるというカラクリ。まさに『変身』する酒なのだ。
「さあ、気付けができたのなら、その妖しげな話しを聞かせろよ」

子供の頃は誰だって「変身」に憧れていた。
男の子はヒーローに、女の子はお姫様に。
いや、大人になった今だって・・・。

「こういう話しを他の人にするのはルール違反だとは分かっているんですが」野次馬根性だってルール違反とは分かっているのだが。「正直に言って、俺はアニーとのセックスに中毒状態なんです。もうそれは恥ずかしいくらい。ベッドの上はもちろんの事、風呂でもトイレでも、いや野外でだって。俺はどちらかというと淡泊な方と思っていたんですが、こういう話しをするのもなんですが、今じゃ彼女が愛おしくてアタマのてっぺんから足の先まで嘗め回すぐらいの野獣ぶりなんです。」
「下ネタで飛ばすには、まだ時間が早すぎるぜ」確かにアニーは、見るからに「麻薬」的なオンナ。でもその素性は誰も知らない。まあ酒場の客の素性など、チンケなアイドル歌手程度にしか興味は無いが。「マスター、ベタだけどノリ一発で『セックス・オン・ザ・ビーチ』を浩紀に作ってやってくれ。」
『セックス・オン・ザ・ビーチ』は、映画『Cocktail』に登場して日本でも有名になったカクテル。だけど味のバランスは悪いし、そのネーミングの奇抜さを除けば、とても自分じゃ呑む気にならない甘いだけの代物だ。
「隠し味に青酸カリでも入れておきますよ」まだ拗ねてるマスター。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』と言えば・・・この間の日曜日にアニーと西のビーチへ行った時の事なんです、その『変身』疑惑のきっかけは」愛が深いほど疑惑はつきものなのだ。「道など無い林を抜けたところに、知る人ぞ知るシークレットビーチがあるのですが、その夜はラッキーな事に誰一人いませんでした。深夜だったからかも知れませんが。灯りも用意していなかったのですが、月明かりが海面に反射して、ビーチは結構な明るさ。穏やかな潮風に髪をなびかせるアニーの美しい横顔を見ていると、思わず我慢できなくなってしまって抱きしめてしまいました。そして誰もいない開放感もあって、生まれたままの姿で砂浜で身体を合わせたんです。普段は暗くてよく見えなかった彼女の身体は、月明かりに晒されてスゴく綺麗だったのですが、ある事に気が付いたんです。ヒップの割れ目の終わる辺りと言うか、腰の辺りと言うか、そこに『カクレクマノミ』のタトゥーが。あの『FINDING NEMO』で有名になった可愛い熱帯魚です。実はまったく同じタトゥーを、俺は見た事があったんです。それはここにもよく呑みに来るアズの身体のまったく同じ場所で」
「アズって、あのダイビングが趣味で、カリブの海に入れ込んでいるイケメンのアズか?」
アズはこの朽ち果てた場末の酒場には似合わない美形の若者。いつも『コンドル』の開店早々に現れて、ハイチのラムである『BARBANCOURT』を、ストレートで数杯引っ掛けて帰って行く。ダイビングが趣味なのに、不思議な事にその肌はいつも白く美しい。そういえばアニーは、この『BARBANCOURT』を垂らしたハイチコーヒーをいつも飲んでいた。『コンドル』のハイチコーヒーは、本物のハイチ豆で淹れているのが気分。
「アズとは年もタメだし気も合う。俺にとって『コンドル』で一番仲の良いノミトモです。俺はサーフィンやってるし、アズはダイビング。今年の春に二人とも海のスポーツやってるんだからと、一緒に石垣島に行ったって話しは前にしましたよね?」
「お前が一生懸命ビーチでナンパしてたのにアズは素知らぬ顔で、滅茶苦茶ムカついたとか何とか言ってたな」
「そうです。あいつスゴくモテるくせに、ストイック過ぎると言うか。ワンナイトラブなんて興味ない、なんてスカした事抜かすんですよ」ワンナイトラブは酒場の醍醐味なのに。「アズにダイビングを教えて貰いながら、石垣の海に潜ったんですけど、それはもう感動するほどの美しさで、まさに熱帯魚が踊る竜宮城でした。何度も石垣の海に潜っているアズに先導されて、カクレクマノミの集まるポイントへ。本当に可愛くて、可愛くて。海から上がった後は、俺、もう興奮状態で、カクレクマノミの話しばかりアズにしてたんです。そうしたらアズが、『僕のカクレクマノミを見せてあげようか』って、訳の分からない事を言うんです。自分が飼ってるカクレクマノミを見せてあげる、という意味かとも思ったんですが。ところがヤツはいきなりウエットスーツを脱いだんです。そしてその腰には、カクレクマノミのタトゥーが。エラく可愛いタトゥーを目立たない場所に彫ったもんだな、と言ったら、『このカクレクマノミは、ファッションじゃなくて僕の願いを掛けたタトゥーなんだ』と言うんです。じゃあ、その願いって何だ、と聞いても、笑うだけで全然教えてくれなかったんです。」
「僕の勘ではね」マスターの勘が当たった試しはない。「カクレクマノミってイソギンチャクを宿主として生きる魚だよね。イソギンチャクって、ほら、よく女性器に例えられるじゃない。だからいつでも女の子とヤレますように、という願いを掛けたんだと思うよ。」脱力感が。
「アズはそんな願いを掛けなくても、その気になればいくらでもヤレると思いますよ。あれだけのイケメンだし」俺もそう思う。「じゃあ誰に彫って貰ったんだ、と聞くと、ヤツがよく潜りに行っているハイチで彫って貰った、と言うんです。それもブードゥーの呪術師にって。オレはよく知らないんですけど、ブードゥーって針さし人形とかゾンビとかですよね。少しアズが薄気味悪く思えましたよ。」
「いや、それは偏見だ。ブードゥーはそんなに恐ろしいものじゃなくて、庶民に崇められている普通の宗教だぜ。別にキリスト教や仏教と何ら変わりはない。確かに呪術効果が凄いという話しは聞いた事があるが。ま、カクレクマノミが泳ぐカリブ海の美しいハイチは、ブードゥー国家として有名だけどな」俺は無神論者だが。「あっ、待てよ。もしかしたら、その願いって・・・」
「何です?タトゥーに掛けられた願いは?」
「カクレクマノミは性転換魚、つまりオスがメスにトランスセクシャルする不思議な魚だ。と言う事は・・・」

ギリシャ&ローマ神話の美少年アドニス。
そして美と性愛&官能の女神アフロディーテ、つまりヴィーナス。
ヴィーナスは息子キューピッドが誤って射た愛の矢で傷を負い、アドニスに恋に落ちた。
しかし不慮の事故で命を落としたアドニス。
悲しみにくれたヴィーナスの涙が、もしくはアドニスの血が「変身」した花がアネモネだという。
そして「ヴィーナスの花」とも呼ばれるアネモネの花言葉は、「はかない恋」。

「それから俺は、アニーとアズの同じ場所に同じタトゥーが何故あるんだ、と悩み出しちゃったんです。それはある種のジェラシーだったと思います。でも二人に血縁や恋愛関係があるなんて話しは聞いた事も無いし、だいたい二人に聞いてみてもお互いを知らないと言うし」永遠の愛の印という可能性も考えられるって訳か。「でも、そこで気が付いたんです。二人とも『コンドル』の常連客だけど、オレが知る限り二人がここで同席した事が無いと言う事に。」
「そう言えばアズくんは遅くても9時までには帰ってしまうし、アニーちゃんは12時前に来た事は一度も無いよね」酒場ってヤツは、その時間帯で表情を変えるもの。
「そうなんです。それだけではなくて、アニーは絶対深夜にしか会ってくれません。そしてアズと石垣に行った時も、一緒に呑もうと内線で誘おうとしたのですが電話に出ない。まだ10時過ぎで、大人が寝るような時間ではなかったのですが。まあ、その時は、ダイビングの疲れがあるのだろうと思って、大して気にしていなかったんですけどね。でも、そこでまた、不可解な事があったんです。」石垣島にはその昔、人魚さえ住んでいたという伝説の島だから、神秘的な話しがあってもおかしくはないが。「翌朝チェックアウトしようとフロントに行った時の事です。宿泊したリゾートホテルのメインバーはカードキーで精算できるのですが、前日にアズのカードキーで精算した女性客がいたらしいんです。その時はバーテンダーも気が付かなかったらしいんですけど、バーの日報と宿泊台帳の摺り合わせで、その宿泊客は男性であるはずなのに女性が呑んでた事が分かったんです。だからカードキーの盗難と思われて、フロントが確認してきたんですね。アズはたまたま石垣で知り合いに会ったので、カードキーで精算する事を承諾して貸したのだ、と言っていたんですけど。でも、俺はそんな話しは聞いてなかったし、アズの日頃の行動から見て考えにくい事だったし。まあ、ホテル側は、女性の連れ込みはご遠慮願います、とかイヤミを言ってたから、華を売る女性を部屋に呼んだと解釈したみたいですけどね。でも実は同じ頃に俺もそのバーで呑んでいて、席は離れていたのですがその女性を見てたんです。スゴく美しくて妖しい女性だった。あまりジッと見る訳にもいかないので、チラッと程度ですが。でも思い返してみたら、アニーに似ていたような気がするのです。」
「本当に不可解な話だな」だけどオンナにまつわる話しは、多少不可解な方がそそられるもの。「まあ、お前に隠してアニー、もしくは別の似た女性を連れて来たという線も考えられなくは無いけど」
「可能性としては、そうなんですけど・・・。」どんな可能性だってこの世ではあり得るもの。己のステディが実は己の娘だったなんて話しでさえ、酒場には転がっている。「実はこういう事もあったんです。さっきも話した通り、俺はセックス中毒状態なんですけど、あれだけ激しい反応をして自ら積極的に求めてくるアニーなのに、身体に傷が入る事を極端に嫌がっていました。もちろん冗談なんですけど、SMごっこで手錠プレイとかしてみない?と言った時など、烈火のごとく怒られました。そこまでいかなくともキスマークは絶対につけないで、とキツく言われていたし。でも俺にしてみればこんなに愛しているのに、未だに自分の素性を何も話そうとしないアニーに、疑惑が沸き始めていたんです。実は人妻か何かで、別に男がいるんじゃないかってね。逢える時間が限定されたりしてるから、俺がそう思うのも変じゃないでしょ?そこでルール違反だとは分かっていたんですけど、セックスをしている時に彼女に分からないようにキスマークを付けたのです。もし他にオトコがいるのなら、ちょっとしたトラブルになるのを想定して。姑息な考えとは分かっているんですけど、どうしても疑惑を解明したくて。まあ彼女はその最中は、もの凄くオルガスムスを感じるタイプなので、それが可能だったのですが。下顎の辺りに鏡で見ても確認できない位置にですね。そして翌日この『コンドル』に呑みに来たら、アズがマスターやジェイさんとバカ話しで盛り上がっていました。大笑いしている彼の横顔をふと見ると、何とその下顎には・・・」
「キスマークがあった訳だな」想像しただけで凍り付きそうな光景。でも双子の片割れが傷つくと片方にも傷が、なんて話しも聞いた事はあるが。「己の愛の証が、なにゆえに友の身体に、か。」
「当然俺は滅茶苦茶に混乱してしまいました。そして、とても考えられない話しだけど、もしかして二人は同一人物ではないか、と思い始めたのです。荒唐無稽なお話しだとは分かっているのですが。いえ、二人は顔立ちも似てませんし、声も性格も何から何まで違います。共通しているのは、その素性が、と言うか過去がよく分からない事だけです。そして頑なにそれを話そうとしないところもですけどね。」
「こう言っちゃなんだけど、アズくんとアニーちゃんが仮に同一人物だとして、例えばアズくんが女装してたとか、逆にアニーちゃんが男装してたとかは考えられないの?」
「それはありえません。俺とアズは今でもよく海にサーフィンやらダイビングに行きますが、俺の前で堂々と裸になって着替えてるし、アニーとはもちろん体の関係があるから女性である事はよく知っています。二人とも正真正銘の男と女です。」
「俺は二人ともよく知っているが、あまりにも見た目が違いすぎて、表面的に化けただけ、とは考えにくいな」『James Dean』と『Marilyn Monroe』が同一人物だと言っても、誰も信じないのと一緒。「でも今気付いたんだけど、二人が『コンドル』に初めて顔を見せたのは同じ日だったな。」
「ええっ、そうなんですか!」
「そう、二人とも初めて会ったここの客は俺の筈だぜ」
「ジェイさんは僕が迷惑だと言っているのに、毎晩毎晩ここで呑んだくれていますからね。二人に限らず、ここの全ての客が初めて会ったのがジェイさんなのは当たり前です」招き猫か疫病神か。まあ今の『コンドル』を見る限り後者のようだが。「これが美しい女性だったらウェルカムなんだけど、毎晩ムサいオヤジの相手をさせられる僕って世界一不幸ですよね。」
「あんたとはいつか決着をつけるとして」冗談を言ってる訳ではない。「あれは去年の夏の事だぜ。その頃はこのダサいマスターが四柱推命に凝っていて、当たりもしないのに客を手当たり次第に占っては得意がっていたんだよ。浩紀だってその被害者になってただろ。でも、たいして常連客もいない酒場だから、アッという間に占い尽くしてしまった。だから一見客が入って来ると、貴方の運勢を占ってあげますよ、と怪しい新興宗教もどきでとっ捕まえてたんだよ。あれでだいぶ客を逃した筈だぜ。まあ、それはともかく、アズが飛び込んできた時も占っていたんだけど、その日が偶然にもヤツの誕生日だった。マスターもお祝いでシャンパン開けてたしな。そして深夜に飛び込んで来たアニーも誕生日だと言う。まあ12時を超えてたから、厳密には誕生日の翌日だけど。マスターが二本もシャンパン開けて大赤字だ、とかブウ垂れてたんでよく覚えてるぜ。」
「思い出してみればそうでしたね、二人とも誕生日が一緒・・・あっ、そう言えばそれって今日ですよね!」なんと言う偶然。しかし偶然が起きやすいのが酒場という場所。「アズくんとアニーちゃんから別々に、誕生日に皆で呑みたいからってワインを預かっていたんですよ。」
マスターがカーブから持ってきたのはフランスを代表する二本のワイン。どちらも特製木箱に入っていて、アズが持ち込んだのは、男性的と言われるブルゴーニュで女性的なボディを持つ『ROMANEE CONTI』。アニーが持ち込んだのは、女性的と言われるボルドーで男性的なボディを持つ『CHATEAU LATOUR』。何かを隠喩してるかのよう。
「二人ともエラく張り込んだな」マスターから木箱を見せて貰った。「あれ、ワインの下に何か入ってるぜ。」それはどちらも浩紀宛の手紙だった。
「その手紙、オレに読ませてください」二つの手紙を読んだ浩紀の顔が、驚愕と困惑が入り交じった表情になっていく。「これは・・・」

その人生の軌跡が驚くほどに接近していても、交錯せぬまま、なんてザラな事。
だが「触媒」に触れると、その道筋が変化する事も。
そして酒場は人生の「触媒」でもあるのだ。

「浩紀くん、手紙にはなんて書いてあったんだい?」
「それが・・・どちらの手紙にも信じられないような内容が書いてあるのですが・・・」
「お前が構わなければ、読んで聞かせてみてくれよ」
「はい、分かりました。俺だけでは判断が付かないのでマスターやジェイさんにも意見を貰いたいし」的確なアドバイスを与えられるかどうかは保証しないが。「アズの手紙から読みます。『大切な友である浩紀へ。君とは一年前に『コンドル』で出会いましたよね。二人とも海を愛する人間なので、すぐに意気投合したのを今でもよく覚えています。酒場だけではなく、一緒にいろんなビーチで遊んだものです。親友と言える友人を持たない僕にとっては、君はかけがえのない宝物でした。そして君と人生で一番素晴らしい時間を過ごす内に、自分の中に友情とは違う感情が芽生えてきたのに気付いたのです。とても君は嫌がると思いますが、それは君を愛しいと思う気持ち、そう、君に恋をしてしまったのです。誤解しないで貰いたいのですが、僕はその人生の中で、同性に恋愛感情を抱いた事はただの一度もありません。だから僕自身スゴく悩みました。何度も君の前から立ち去ろうとしましたが、君が恋しくて結局それは出来ませんでした。何度も君にこの気持ちを伝えようともしましたが、普通の異性愛者である君が受け入れてくれるとは到底思えませんでした。そこで僕はある決断をしました。僕がハイチの海を愛して何度も訪れていたのは知っていますよね。そこである願いを掛けてブードゥーの呪術師にタトゥーを彫って貰った事も言いましたよね。その願いとは、君を愛する事を許される本物の女性になる事。僕の腰に彫られたカクレクマノミは、オスからメスに性転換する魚です。ブードゥーの秘術を使って、そのタトゥーにはパワーが宿りました。そう、僕は本当に女性になったのです!君を愛するアニーという名の女性に。でもそれは闇の力が働く午前零時から夜明けまで。それを超えると男性に逆戻りです。呪術師は言いました。一年の時を過ぎる前に、己の愛する者の己への愛を手に入れる事が出来たなら、そのパワーは永遠のものへと変化するだろう、と。そして僕は、いやアニーは君の愛を手に入れました。この一ヶ月は、僕にとって至福の時でした。本当に幸せだった・・・。でも永遠のパワーを手に入れた僕は、このタトゥーと、それに秘められた闇の力を消し去らなければならないのです。その為に僕は、今日ハイチに飛び立ちます。そして君の前から立ち去ります。だって僕の身勝手な愛情で、大切な友である君を騙したのだから。僕は遠いカリブの海から君の事をいつまでも想っています。ごめん、そして、今までありがとう。親友、そして愛する人、浩紀へ。』と・・・」
「絶句、という感じですね」と言うか、少し背筋が寒い。「いくらブードゥーの呪術が凄いとはいえ、そんな事が本当に可能なんでしょうか?」
「うーん、世界にはオレが知らない現象があるのかも知れないが・・・」男が男を愛する、というのも、俺にとっては未知の現象だが。「浩紀、それでアニーの手紙は?」
「それが、こっちには全然違う事が書いてあるんです」バイセクシュアルとかの話しなら、オレの守備範囲を超えている。「とにかく読んでみます。『愛する浩紀へ。貴方を愛するが故に、貴方の元を離れる事を決断しました。そして今さらですが、貴方に話してなかった事実をお話しします。実は私は純粋な日本人ではなくて日系ドミニカ人、戦後に日本政府が募集した移民事業で入植したドミニカ移民の三世なのです。夢を抱いてドミニカに渡った祖父ですが、現実は政府の謳うような夢の土地ではなく、開墾が不可能な僻地が与えられたのです。それでも何年も荒れ地を耕しては作物の種を植え続けたのですが、いつまで経っても収穫はできない。失意のままに祖父は亡くなりました。残された家族は、それでも生きていかなければならない。まだ若き父は日系人の少年たちと徒党を組みドゥアルテ山にアジトを造って、通行人を襲う山賊となったのです。当時のドミニカは、独裁者の『Trujillo』大統領が支配してたのですが、山岳地までは実効支配できてなかったのですね。時折山を降りては、ドミニカ軍基地に夜襲を掛けては武器を強奪し、武装勢力として軍閥化していきました。そして反政府組織のOLM、つまりドミニカ解放運動に合流したのです。父の組織はOLM内では、もっとも武闘派として恐れられたのですが、それは日系人であるという特殊な事情があったから。目立つ功績を挙げなければ、仲間に認めて貰えなかったのです。だけど規律違反があれば仲間でも容赦なく鉄の制裁を加える冷徹さに、父を疎むメンバーも多かった。ある時、父がアジトで作戦会議を開いている時に、反対勢力の急襲を受けました。居合わせた幹部のほとんどは射殺されましたが、父と数人はなんとか逃げ出す事が出来たのです。とは言っても、そのままドミニカにいるのは命取りなので、山岳の国境線を越えてハイチ側に逃げ込んだのです。ドミニカとハイチはイスパニョーラ島という島を分け合う国々なんですね。父は首都ポルトーフランスのダウンタウンを縄張りとして、腕づくで現地のストリートギャングを傘下に収めていきました。「カリビアンドラゴン」という異名で、父は現地の人々に恐れられました。そして中南米に広がる反政府組織のネットワークを使って、コロンビアから米国へのコカインの中継基地として財を成したのです。だから南米の麻薬組織撲滅に躍起なアメリカにとっては国家の敵。何度もDEA、つまりアメリカ麻薬取締局や、米軍の特殊部隊の襲撃に遭ったのですが、悪運の強い父は逮捕される事も殺される事もなく、未だにハイチの裏組織の黒幕として君臨しています。実は私には唯一の兄弟である弟がいるのですが、私たちは二卵性の双子なのです。そして幼い時に父が二人の腰にタトゥーを彫ったのです。常に戦乱に揺れる地で、たとえ生き別れになったとしても分かるように、と。それはカクレクマノミのタトゥー。他の魚はその毒で傷付けるイソギンチャクの中で美しく楽しげに生きるカクレクマノミに、ギャングとして生きる身でも子供達だけは守るという思いを重ねたのでしょう。悲しい事にハイチへの逃避行の時に弟とは生き別れになったのですが、今から数年前の事ですが実は日本にいるという情報を得たのです。どういう事かと言うと、どうやら離ればなれになった弟は、ドミニカの首都、サントドミンゴの日本大使館に逃げ込んで保護されてたらしいのです。そして帰国したと。大人になった弟、そう貴方の親友であるアズは、ハイチを度々訪れていて、彼を知っているハイチ人が、私と同じ場所に同じタトゥーを持つアズが私と何らか関係があるんではないかと伝えてくれたのです。そしてその幼い日の面影しか記憶に残らない弟に会う為に、私は秘密裏に日本に来たのです。でも私はアメリカ政府に追われる身。私の首には高額の賞金が掛けられています。アメリカから多数のバウンティハンターが、一攫千金を狙って日本に来ているのです。だから私は常に居所を替えながらアズを探しました。行動するのは深夜のみ。彼の出入りするダイビングショップのオーナーから、彼が『コンドル』という良い酒場を見つけたと聞いたとの情報を得たのです。そして彼が泊まる石垣のホテルの部屋を尋ねると、彼はそうとう驚いていました。それはそうでしょうね。もう死んだと思った家族が突如目の前に現れたのですから。でも、彼は私の出現を喜んではくれませんでした。家族に見捨てられたとの思いから、私は憎悪の対象でしかなかったのです。それでも弟と向き合って話したい気持ちは変わらず、『コンドル』に通い続ける中で、追われる身でありながら貴方と出会い、貴方を愛してしまったのです。貴方は悲しみの中で出会った私の宝物だった。でも、もう日本に居れないのです。先日、日本の協力者から、私が『コンドル』に通っている事がバウンティハンターたちに知れた、との情報が。それだけではありません。日本の警察にもDEA及びFBIから正式に逮捕要請が来たそうなのです。日本とアメリカには犯罪人引き渡し協定が結ばれているので、逮捕されればアメリカの監獄行きです。誓って言いますが、私は父と違って悪事には手を出していません。でもそういう事情は、国際政治の中ではほとんど意味を成さないでしょう。ハイチへの外交カードとして利用するのが、アメリカの目的ですから。このまま日本にいれば、大切なアズや愛する貴方に何らかの危害が及ぶ可能性があります。だから私は日本を去ります。貴方と過ごした日々は死ぬまで忘れません。遠いカリブの海から貴方を思い続けます。ありがとう、そして、さよなら。愛する浩紀へ。』と・・・」

アネモネは風の妖精の化身とも伝えられる。
日が落ちたり雨が降ると、その美しい花びらが閉じるのは、妖精を守る為、と。
その花びらを無理矢理開いて吐露するのは、愛するが故の切ない決断。
はかない恋ほど純化していくものなのだ。

「どちらの話しが真実なんでしょうか?」それは神のみぞ知る、だ。「俺にはもう分からない・・・」
「どちらの話しが真実なんてオレらには分かりやしない。大切な事はお前のアズ、いやアニーに対する気持ちだ。」愛、だけは信ずるに足りるもの、と思いたい。「オトコが転生したオンナ、もしくは国際的犯罪者として追われるオンナ。そういうオンナをお前は今でも愛しているのかどうかだ。」
「それは・・・」即答できなくても当たり前。「俺はやっぱりアニーを愛しています。アニーにどんな凄い事情があろうと、やっぱり俺には一番大切な人です。俺は彼女を失いたくない。絶対に。」
「それなら話しは簡単さ。」人生に迷った時は、もっともシンプルな選択肢を選べ、という事。「それならサッサと追いかけりゃいい。それだけの事さ。ニューヨークで乗り換えで、優に20時間は掛かるけど、明日の朝一番で発てば深夜には彼女の笑顔を拝めるさ。一日遅れのハッピーバースデイを祝ってやれよ。」
「はい!じゃあ俺はもうこれで。」
「あっ、浩紀くん。この二つのワインも持って行きなよ。アニーちゃんと二人で乾杯しなさい。」たまにはヤツでも気が利くな。「僕も大好きだったんだよ、とアニーちゃんに伝えておいてね」
「はい!では!」
「引き際が悪いのはあんたの特徴だけど」まあ、そういうところもネタ的に魅力とも言える。「あのワインも惜しかったな。替わりに何か飛び切り美味いワインでも振る舞ってくれよ、マスター。」
「ジェイさんには、これがお似合いだと思うなあ」と、『Mercian』.。
「よし、今夜こそはカタを付けようぜ、マスター。覚悟しときな。」

美しく妖しいオンナは、それ自体が真夏の夜の夢。
突拍子もないお話しだって、身を纏うベールのようなものに過ぎないのさ。