霧のサンフラワー | 禿鷹亭綺譚

霧のサンフラワー

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「ここんところ毎日雨が続いてイヤですね、ジェイさん」開店早々あくびをしながらボヤくマスター。「今夜なんてうっすら霧まで出てますよ。また、お客さんの出足が悪くなっちゃうなあ。」
「この店に客がいないのは雨のせいじゃないだろ」正直マスターはメシ食えてるんだろうか、と心配になる時がある。「でも、こういう静かな雨の日も良いものだぜ。芭蕉も『春雨や 蜂の巣つたふ 屋根の漏り』なんて詠ってるし。まあこの長雨は春雨と言うより春霖って感じだけど」
「しゅんりん?中国人の名前ですか?」菜種梅雨、とも言う。「まあ何でも良いや。ジェイさんの話しにまともに付き合ってたらオヤジ臭くなるから、気にしちゃいられませんけどね」
「おい、マスターよ。接客業のイロハを俺が一から教えてやろうか?」このオヤジには一度ガツンと言わねばなるまい。
「ジェイさんの戯れ言聞いても、何の参考にもならない・・・あ、いらっしゃいませ」
ドアの方を振り返ると、この霧雨に身体を濡らした長い髪の女が立っていた。見かけない顔だが、優しげな美しい眼を伏せがちに佇む様は、まさに『水も滴るいい女』というところだ。
「濡れちゃったから・・・タオル貸して貰えますか?」魅力的なハスキーボイスだ。
「はいはい、どうぞ、これ」マスターが嬉しそうな顔をしているのは、売り上げが上がるからだけではないだろう。「こちらに座りませんか?ストーブのそばだから暖かいし。横に辛気くさい人がいるのは気にしないで下さいね。」殺意、とはこういう時に生まれるものだろうか?
「ありがとう。あら、このストーブって『Aladdin』ですね。懐かしいわ」俺の後ろ辺りに置かれた、ところどころ塗装がはげてサビが浮いている『Aladdin』は、最近のもののようにチムニーガードなど付いていないシンプルな50年代のものだ。
「へえ、これって『Aladdin』って言うんですね。実家のガレージで使ってたヤツを勝手に持ってきたんで、名前なんか知らなかったなあ」
「父の書斎に置いてあったんです。書き物をする父の横で、暖を取りながら母のお手製のクッキーを食べるのが好きだったの。もう子供の頃の話しなんですけど」子供の頃があったとは思えないほど大人びた女性ではあるが。「ホットバタードラムをください。『MYERS'S RUM』を使って。」
「分かりました。うちのホットバタードラムは、『ECHIRE』の発酵バターを使うから飛び切り美味いですよ」どの酒も驚くほど安く出してるのに、素材にはこだわる心意気は素晴らしいのだが、原価計算ができてないだけかも知れない。「そして最初の一杯は僕の奢りです。貴女にウェルカムの気持ちを込めて。」気持ちは分かるけど、相変わらず商売下手。

外はシンシンと雨が降り続いている。
時に雨は、華やいだ気持ちを削いでしまう事もあるから、憂鬱に感じる事もある。
だけど痛んだ心を静かに癒したい時には、優しい雨音が傷口に染み渡る。
俺も寂しかった子供の頃は、一人雨降る窓の外を眺めて過ごしていた。
その頃を思い出すような、優しく静かな雨。

「ところで君の名は?」雨音(あまね)という名のような気がした。
「野暮は止めましょうよ、ジェイさん。会ったばかりの女性に、いきなり名を名乗れだなんて」
「いえ、いいの。かすみ、と言います。」確かに夕霞という雰囲気だ。
「質問ばかりでなんだけど、何故傘も持たずに?今日は朝からずっと雨が降り続いているのに」
「そうね、確かにそうね」でも俺だって雨に濡れたい時もあるのだけど。「会ったばかりの貴方にこんな話しをするのは迷惑かも知れないけど、誰かに聞いて貰いたい気分なの。構わないかしら?」
「ああ、もちろん。酒場とはそんな場所さ」
「マスター、『MASSANDRA』の『Livadia』なんてないでしょうね?」
「ありますよ。何年物が良いですか?」
「えっ、本当にあるの?もし可能なら1956年をボトルで」
「分かりました。でもお値段が・・・」
「大丈夫。ジェイさんにもグラスを」
「では遠慮なくいただくよ」
『MASSANDRA』は、黒海に面した保養地として有名な現ウクライナのクリミア半島マサンドラ村にある、ロシア皇帝所蔵のワインコレクションを引き継いだ世界最大のワインセラー。『Livadia』は『Cabernet Sauvignon』種のポートタイプで薫り豊かだが、大人の男に少し甘過ぎる。
「たぶんジェイさんには甘いでしょうね」お見通しのようだ。「でもこの『MASSANDRA』は、父や母、そして私にとって一番大切なワインなんです。」
「だけど『MASSANDRA』が解禁になったのは、つい10年ほど前の事ですよね?」と、マスター。ボーっとしてるようで、さすがはプロ。
「一般的にはそうなんだけど」そう言って一気にグラスを空けるかすみ。見た目の弱々しさとは裏腹に結構酒豪なのだろう。「わたしの父は、東京外国語大学が戦後に新制大学になった時の一期生だったの。当時の日本はもちろんアメリカの占領下にあって、思想や文化、そして価値観もアメリカの影響が大きかった時代でしょう。硬骨の人だった父は、そういう無節操な風潮に反発を感じていて、当時のアメリカと並ぶ両雄だったソ連、今のロシアを研究する道を選んだの。父は共産主義者ではなかったんだけど、大学に入った後に起きた朝鮮戦争は、父のアメリカへの憎悪感と祖国日本への失望感を決定づけたみたい。ロシア語の習得の為に雑音に悩まされながら自作ラジオでモスクワ放送を聞いていた父は、日本の新聞では伝えられなかった現地の惨状を知っていたのね。特に米軍によるナパーム弾の使用が、もっとも許せなかったみたい。父は年老いてからも、核爆弾にも匹敵する犯罪だとよく言ってたわ。もちろんモスクワ放送だってプロパガンダだから、鵜呑みにできないのも事実ではあるんだけど。」
「ナパーム弾って知ってます、ジェイさん?」
「あんたが死んだら飲酒の悪業で送られる焦熱地獄のようなものさ」『MASSANDRA』が急にイヤな苦みを増した。「ジェル状に加工したナフサ、つまり揮発油とパーム油を仕込んだ爆弾の事だよ。爆発するとナパーム油が一気に広がって炎上する焼夷効果が強い爆弾なのさ。そのジェル状のナパーム油が人間の肌に付着すると粘着して取れないから、それはもうムゴい死に様らしいぜ。今は『特定通常兵器使用禁止・制限条約』で禁止されたけど、米軍は今でも平気でイラクなんかで使ってるけどな。」
「そういうジェイさんこそ邪淫の悪業で大焦熱地獄に送られるくせに」フン、と鼻を鳴らすマスター。
「その朝鮮戦争の特需に日本は沸いた。第二次世界大戦では、焼夷弾で国土を焼け野原にされ、多くの尊い命を失った日本が、その戦争のおかげで復興出来たのも皮肉よね。当時の日本の状況を考えてみれば、生きていく為には仕方なかった事でもあるんだけど、まだ若かった父には許せなかったんでしょうね、そういう日本人の姿勢が。そして相対的にソ連が素晴らしい国家に思えたんでしょう。父はソ連への傾倒を深めて、卒業後にロシア語通訳になったの。」
「その夢の国家、ソ連は既に無くなってしまったけど・・・」ソ連、という国名も忘れかけていた。
「まだ若かったけど高いレベルでロシア語ができる貴重な人材だった父は、政府や民間の使節団に随行してよくソ連に行ってたの。そしてソ連外務省の女性日本語担当通訳官と知り合った。彼女はソ連では有数の日本語エキスパートで、日本文化に傾倒していた。ロシアを愛する日本人の父と、日本を愛するロシア人の彼女。親しくなるのは当然と言えば当然よね。ネットなんて無い時代だから、文通で親交を温めた。そしてプラトニックではあるけど、愛情も。父はロシア語で、彼女は日本語で文を書き綴ってきた、というのが、なんだかお互いの優しさに溢れていて微笑ましく感じたわ。そして理想の国ロシアでの永住を切望していた父の為に、彼女は諜報部門の要職に就いていた父親のフェリックスに頼み込んで、父はヤルタのインツーリストに迎えられたの」
「ヤルタって『ヤルタ会談』で有名な街ですよね」
「ソ連時代のヤルタは、共産党幹部や高級官僚、将軍などの別荘が建ち並ぶ高級リゾート地だった」下層階級のオレにはまったく縁の無い場所という訳だ。「そしてインツーリストは、今でこそただの国営旅行会社だけど、ソ連時代の裏の顔は西側世界を掻き回した諜報機関、KGBの手足でもあったのさ。」
「父はフェリックスの別荘に住み込む事になったの。でもね、彼女がヤルタという街を指定してきたのは、別荘があるからという理由だけじゃない。父が愛したその女性の名は、アナスタシアと言うの。アナスタシアは、粛清の嵐が吹き荒れる当時のソ連では、誰にも話す事の出来ない自分の生誕にまつわる秘密を愛する人だけには打ち明けたかったの。」
「アナスタシアって、最後のロシア皇帝、『Nicholas II』の末の皇女で、その行方が謎とされている『Anastasia』と同じ名前だな」同名のビバリーヒルズのセレブレティ御用達眉サロンもあったが。「生誕の秘密って・・・。でも、まさか・・・」
「そう、そのまさかなの。皇帝一族はロシア革命で処刑されてしまったけど、当時17歳だった『Anastasia』は一人生き延びたと信じてる人も未だに多いのは知ってるでしょう。そういう映画もハリウッドで何度か作られたし。父はアナスタシアからの手紙でその真実を知った。アナスタシアは、その伝説の『Anastasia』の娘だと言う事を」
「それが本当の話しなら世界的な大ニュースだな」
「フェリックスは皇帝を支える貴族家の一員だったの。でも一族の当主がクレムリンに入り込み我が物顔で国政を掌握してた怪僧『Rasputin』の排除を皇帝に進言したんだけど、それが結果的に仇となってクレムリンから追放された。だからフェリックスは、激しく皇帝を憎んでいたの。だから貴族の身でありながら、17歳という若さでロシア革命に身を投じた。そしてソビエト政府成立後、共に革命の死線をくぐり抜けた兄貴分的同志で、本名を捨ててまでその名前まで貰ったKGB初代長官の『Feliks Edmundovich Dzerzhinskii』に引き立てられて、主に国内保安を担当する諜報機関であるGRUの幹部となったの。フェリックスは貴族出身で上流社会の内情にも詳しく人脈もある。そして『Anastasia』本人をよく知っている彼に与えられた任務は、その彼女を見つけだす事。当時から彼女が生きているという噂はロシア中に流れていたんだけど、もしロマノフ朝直系の血族である彼女が生きていたならば、反共勢力に錦の旗として担ぎ出されるかも知れない。だからソビエト政府にとって彼女は、是が非でも抹殺しなければならない存在だったのね。フェリックスはロシア各地に逃げ延びた貴族を捜し出しては、容赦ない拷問を繰り返し情報を集め続けた。そして10年後、とうとう彼女を見つけ出した。そしてその場所がヤルタ近郊のリヴァディアだったの。」

人はその生まれる場所を選ぶ事はできない。
高貴な血筋が幸せの障害になる事だってある。
自由に勝る贅沢はない。
今の時代でさえ、その自由を持たざる人々がなんと多い事だろうか。

「革命の動乱で拘束された皇帝一族は、ウラル山中に幽閉されていたの。愛する家族は悲しい事に銃殺の憂き目にあってしまったんだけど、『Anastasia』だけは命からがら抜け出して、何十日も掛けてクリミア半島にあるリヴァディアへ向かった。何故リヴァディアなのかって?それはそこに彼女が子供の頃から愛したリヴァディア宮殿があったから。ヤルタ会談が行われた場所として有名なリヴァディア宮殿は、降り注ぐ日光ときらめく海が印象的な皇帝家の夏の宮殿。彼女のお気に入りは、海を見下ろす皇帝執務室からの美しい黒海の眺めだったらしいわ。一日中薄暗くて厳寒のモスクワ育ちの彼女にとっては、それは桃源郷のような場所。動乱を逃れ、傷ついた彼女の心安まる場所は、ここしかなかったんでしょうね。」
「南へ、南へ、と自分に言い聞かせながら逃げ延びたんだろうな」歯を食いしばって歩く17歳の少女の姿を思い浮かべると、切なさが込み上げてくる。
「裸足で遠路を歩き続けて、足を血だらけにしてね」だけど立ち止まれば、その命を落とす事も彼女は分かっていたのだろう。「なんとかリヴァディア宮殿に辿り着けたのだけど、もちろんノンビリ過ごす訳にはいかない。『Anastasia』である事がバレてしまえば、一巻の終わりだからね。だから宮殿の幼い頃から親しい侍従の計らいで、名前を変えて宮殿のワイン農園に農婦として潜り込んだのよ。」
「その農園で今でも作られているワインが、この『MASSANDRA』の『Livadia』・・・」
「そう。でも彼女はこのリヴァディアを心の底から愛してたから、逃亡者であるという状況や過酷な農作業にも心を閉ざしてしまう事はなかった。持って生まれた天真爛漫な性格は、より光り輝き村の人々からは、ヒマワリと呼ばれて皆に愛されていたそうよ。それからの10年間、普通の農婦として精一杯生きていたのだけれど・・・」
「見つかっちゃった訳ですね、フェリックスさんに」
「そう、母との絆が決め手となってね」大切なものが皮肉にも己を窮地に追い込む事もある。「幽閉中に母である皇后『Alexandra』は、自分たちが助からない事を覚悟していた。だけどせめてまだ若い『Anastasia』だけには生き延びて欲しい。そして自分たちが命を失う事があっても血族の証を残しておきたいと、彼女の右のヒザ裏に小さくロマノフ家の紋章を彫ったの。でも村の共同浴場でそれを見た村人たちの間で、静かな話題となっていたのね。その噂をフェリックスに嗅ぎ付けられてしまったの。」
「愛する娘への深い愛情が、結果的に彼女を追いつめる事になるなんて」涙ぐむマスター。
「そして10年の月日を経てやっと彼女を見つけたフェリックスは、自分の眼で確認して本物である事を確信した。幼い時の記憶だけが頼りだけど、粗末な服を着ていても隠しきれない気品のある立ち振る舞い。そして天真爛漫なハジける笑顔。だけどフェリックスは彼女を拘束する事にためらったの。それは気高い皇族だからではなく、その美しさからでもない。泥に汚れ、汗まみれになって、誰よりも一生懸命に働く『Anastasia』。命ある喜びと労働の尊さの象徴であるかのようなその姿にね。ソビエトは労働者と農民の同志たちが作り上げた国家じゃないか、彼女を捕らえて銃殺に処す事は我々の基本理念の否定ではないか、とフェリックスは悩んだの。そして彼女が葡萄の収穫作業を終えて帰る夜の農道を待ち伏せた。フェリックスの突然の登場に彼女は驚いたけど、いつかこの日が来るとも覚悟していたの。だけどフェリックスは言った。『僕は明日のこの時間まで、久しく取っていない休暇をこの美しいリヴァディアで取る。その間に君はオデッサ経由でコンスタンティノーブルへ船で渡り、オリエント急行でパリへ。そしてそこから自由の国アメリカへ行きなさい。アメリカに行けば、あなたは本当の自由を得る事ができる。追っ手の恐怖に怯えながら生きて行かなくても良くなるのだ』と。」
「フェリックスさんは良い人だったんですね」
「でも彼女はその申し出を断ったの」命より大切なものを持つ者は気高い。「彼女は言った。『わたしは今では名を隠して生きている逃亡者の身だけど、愛するロシアの国民に支えられて生きてきた皇族です。命惜しさに祖国を捨てるくらいなら、このロシアの大地で銃殺刑になる道を選びます』と。国家に追われる身でありながら、その国家と国民に忠誠を誓う彼女の誇り高き姿にフェリックスは感銘を受けたの。同時に命を賭けて彼女を守る事を心に誓った。そしてそれは恋の始まりでもあったの。」

人は太古の昔は獣であった。
獣はその命の火を消さぬ為に、他の獣を追い続ける宿命にある。
そして生への執着心とは、己と愛する者の『血』を未来へ残す為の本能、という事に他ならない。
狩りは、すなわち愛なのだ。

「フェリックスはリヴァディアのGRU支部への転属を願い出たの。GRUは要人警護も主要任務だから、共産党書記長の別荘もあるリヴァディアへの転属という腕利きのフェリックスの希望は受け入れられた。そしてフェリックスは『Anastasia』を嫁に迎えたの。もちろんその出自も本名も隠したままで。その三年後に娘が生まれ、フェリックスはその子にアナスタシアという母親の名前を授けた。アナスタシアは『復活』という意味の言葉でもある。いつの日か『復活』して常に太陽を向くヒマワリのように、身を隠す事無く生きていけるような世の中になって欲しいとの願いを込めてね。」
「そのアナスタシアが、君の父親が愛した女性な訳だ」
「そう。父とアナスタシアは10年にも渡る文通で愛を深めた。その手紙の記述によれば、アナスタシアは大学を出て社会に出るその時に、両親からその出生の秘密を初めて聞かされたの。まさか自分の母親が伝説の『Anastasia』であった事に、スゴく驚いたのも当然よね。だけど死去直前とは言え、独裁者の『Stalin』が国家の全権を掌握していた当時のソ連では、口を避けても言えない事実でもあったの。」
「愚かな指導者によって、2000万人以上もの尊い命を散らせた時代だからな」権力、というものは、悲しい事だが庶民の為に使われる事がほとんど無いのは、その歴史が証明している。「でも何故アナスタシアは日本に興味を持ったんだろうな?」
「それはね、母親の『Anastasia』にとって日本は憧れの国だったからなの」ヨーロッパの上流階級の東洋趣味は、伝統的なものではあるが。「『Anastasia』が幼き日のロシアは、領土拡大の為の東方政策に力を入れていて、皇族も日本語の修得に熱心だったの。彼女の日本語教師は太平洋側のロシア沿岸に漂着した日本人漁師だったのだけど、日本語教育の傍らに祖国への郷愁もあって日本の素晴らしさを事細かに彼女に伝えた。美しい四季のある日本、権力闘争に明け暮れるロシアの皇族や貴族と違って万世一系で国民に敬われる天皇の存在、そして暖かい春の雨。彼女の中で日本は夢の国になっていったのね。ロシア革命時に日本がシベリア出兵したのも、赤軍に追われる皇族の彼女からすれば、援軍的な印象を持ったのかも知れない。」
「あれは革命の混乱のどさくさに紛れて、国家権益を確保しようとした暴挙なんだけどな」火事場泥棒とはまさにこういう事を言う。「そのうえ日本政府の勅命を受けたスパイの『明石元次郎』中佐は、革命勢力に裏で資金を流したりしてたしな。いわゆるマッチポンプってヤツさ。」
「『Anastasia』はまだ見ぬ理想の国の話しを、夜毎ベッドで娘に話して聞かせたの。その寝物語を聞いて育ったアナスタシアが、日本への憧れをふくらませたのは当然よね。」
「ワイルド気取って不潔なジェイさんは、『あか太郎』が子供の頃の寝物語だったんでしょうね」いつか殺す。
「父とアナスタシアはリヴァディア宮殿で夫婦の契りを交わしたの。父親のフェリックスは高級軍人だったけど、要人は呼ばずにリヴァディアの人たちだけ招いてね。それは母親の『Anastasia』が強く希望した事なの。それはとても美しい花嫁姿で、世が世であれば戴冠式だったかも知れないのに、と出自の秘密を知る元侍従は嘆いたけど、共に汗を流した村人たちに祝って貰う方が幸せなのよ、と『Anastasia』は娘に諭したの。」
「そうか、ロマノフ朝直系の唯一の生き残りだからな。」
「長い月日を経て愛を育んできた二人は、それは仲むつまじくて、誰もが羨む夫婦だった。でも、その幸せは続かなかったの。」
「お父さんが巨乳のロシア美人と浮気したんですか?」マスター、もう喋るな。
「『Stalin』死去後に、ソ連共産党書記長に就任した『Khrushchev』が個人崇拝や独裁、そして大粛清を糾弾した『スターリン批判』を党大会で行ったの。」
「それは素晴らしい事じゃないですか。これで人々は粛清の恐怖から解放された訳でしょ?」
「世の中ってヤツは、そう簡単なものじゃないんだぜ、マスター。『昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵』なんだよ」
「そう。フェリックスは体制側で粛清の先兵として動いていたから、その立ち位置を問われたの」人生でその信念を問われるターニングポイントは何度も何度もやって来る。一筋が良いのか、己の過ちを認めてより良き道へ軌道修正するのが良いのか。「本来は『Stalin』の忠臣だったフェリックスだけど、『Anastasia』との出逢いによってソ連という国のあり方に疑問を感じていた彼は、『スターリン批判』を機に批判派に回った。だから『Khrushchev』がソ連を掌握していた10年ほどは良かった。だけど『Stalin』時代への回帰を進める『Brezhnev』がトップに立って時代は逆行し始めたの。己の罪を棚に上げて寝返った修正主義者だ、とヤリ玉に挙がったのね。フェリックスは窮地に追い込まれた。そして娘夫婦にも身の危険性が及ぶ可能性を危惧したフェリックスは、たとえ何があっても愛するロシアの地に骨を埋める覚悟だ、と言い張る父を説得した。キミたちは己の志に生きる権利がある、だけど娘の身体に芽生えた新しい命を、危険にさらす権利は誰にもないはずだ、と。」
「妊娠してたんだな、アナスタシアは。でも、もしかしてその子って・・・」
「そう、それが私なの。」

美しく整えられた庭園に咲く花々は、誰もの心を癒し華やがせる。
しかし時にその主人は、己の都合で美しき庭園を潰し、無惨な姿をさらす事も。
死に絶えたように見える花々は、その「血」を残す為に風に願いを掛けて命の種を預ける。
そしてその種は思いもつかない場所で、その気高い花を咲かせる事もあるのだ。

マスターが黙ってかすみに『SMIRNOFF』をストレートで差し出した。そうか、『SMIRNOFF』は元はロシア皇帝御用達だが、ロシア革命で創業の地を追われ、パリで『復活』したウォッカだったのだ。
「長らく子供が授からなかった父と母は、その言葉で日本行きを決めたの。フェリックスや『Anastasia』が必死に『血』を守ってきた思いを知ってるから。でもそれは皇帝家の『血』だから守る訳じゃない。歴史の激動に晒され続けて苦しみを知る『血』を、誰もが幸せに生きる世の中を創る為に後世に残す義務があるから、と」遺伝子には『思い』という情報も刻み込まれてると信じたい。「辛い決断ではあったけど、父夫婦は日本行きを決めた。でもフェリックスと『Anastasia』が、父夫婦に付き添えるのはモスクワまで。霧に霞むモスクワ空港で、四人は号泣した。それが今生の別れである事は誰もが分かっていたから。」
「泣けるね」子と永遠に別れる事より辛い事などこの世には無い。
「フェリックスや『Anastasia』がいたからこそ生まれてきたその命。そしてその命だけは絶やさないと願った二人の思いを忘れてはいけないと、その霧の中のツラ過ぎる別れの情景を、永遠に記憶に残し新しい命に引き継ぐ為に、私はかすみと命名されたの。」
「『Nicholas II』や『Alexandra』の思いも、だろうな」目の前のこの美しき女性には、いろんな人々の切なる思いが託されているのだ。「日本に逃れてからの君ら家族は幸せに過ごせたのか?」
「直接の面識はないのだけど、皇帝一家と深い繋がりのあった元ロシア貴族が、ロシア革命の時に秘密裏に日本に逃亡していたの。第二次世界大戦中は、弾圧されて特高の牢獄に入れられていたんだけど、処刑される前に日本が敗戦して何とか命を繋いだ。そして戦後その元貴族は、共産圏への密輸で財を成したの。その元貴族のはからいで、小さな屋敷を手に入れる事ができた。そして父はロシアの文献の翻訳を生業として、ささやかではあるけどなんとか生きていけたの。」
「そこにはあのストーブがあった訳ですね」
「そう。あの『Aladdin』は、私の大切な思い出なんです」ストーブの炎やその匂いは、幼き日の記憶を呼び起こすタイムマシンでもある。「その後のフェリックスや『Anastasia』の行方は知れなかったの。でもその二十数年後、ソ連は崩壊した。もちろん父は何度もロシアに足を運んだ。そして・・・父夫婦が日本に飛び立った直後に、フェリックスが銃殺に処されたというKGBの記録を見つけたの。フェリックスが慕った『Feliks Edmundovich Dzerzhinskii』が作り上げたそのKGBに命を絶たれたの。そして失意の父は、ほどなくこの世を去った」ボロボロと涙をこぼすかすみ。こぼれる涙を止める事はない。その涙が枯れるまで泣けばいい。
「その時に『Anastasia』も?」そういう質問をする自分が、とても恥ずべき人間のように感じる。
「いえ、彼女の記録はなくて行方知れずのままだったの」悲しき伝説は続くのか。
「でもお母さん、いやアナスタシアさんはどうなったのですか?」鼻をグスグスさせ、喉をしゃくりながらマスターが聞く。
「今日は母の一周忌なんです」そして子にとっても母親は宝ものだ。「私は唯一の家族を亡くした一年前、真剣に自分の命を絶つ事を考えました。母アナスタシアは私にとってかけがえのない大切な人だったから。愚かな考えである事は分かっていたけど、自我が完全に崩壊してパニックに陥ってしまって。この一年間は廃人のように生きていました。だけど・・・」
「だけど?」
「だけど今夜、母の眠るお墓に行ったら、その回りにたくさんのかすみ草が。母が大好きだった花なんです。私の名前と一緒だから母はとても愛していて、いつも家に飾られていた花。誰が植えたか、野生のものかは分からない。私は生きる望みも失っていたけど、墓地の片隅で雨に打たれながらも、このか細い草花は一生懸命生きている。母も、またその母も、子を守る為に一生懸命生きた。私はいろんな人が、私を守ってくれてきた事を忘れていた事に気付いたんです。そして自分の命は自分だけのものだけではない事に。」
「そう言えば・・・かすみ草の花言葉は『感謝』、だったな」
「フェリックスや『Anastasia』と父夫婦が、私にその命を預けた今夜と同じ霧雨の日を思い描いて、この霧雨の中を歩いて来たんです。不思議に雨に打たれても、身体は暖かいままだったわ。」
「そうか、でもあれを見てごらん」いつの間にか夜明けだ。「さっきまで街に掛かっていた霧も晴れてきた。その向こうには、太陽が顔を出しているぜ。君は霧の日に命を受けた。でもこれからは、ヒマワリと呼ばれた『Anastasia』のように、太陽を向いて生きていくのさ。」
「かすみ草はヒマワリへ、なんですね」初めて見せたその美しい笑顔は、誰もの心を惹き付ける太陽の輝き。
「もう夏はすぐそこです、かすみさん。『コンドル』は、快晴の日でも貴女をお待ちしてますよ」
「その日までここがあれば、の話しだけどな」
「ジェイさんは今日をもって入店禁止です」

薄汚れた街の片隅の朽ち果てた酒場にだって、たまには花があっても構いやしない。