ある満月の夜に | 禿鷹亭綺譚

ある満月の夜に

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

『コンドル』のドアを開けると、カウンターの真ん中に若い男性客が一人だけ。相変わらずヒマな酒場だ。
「ああ、ジェイさんじゃないですか」マスターが何かホッとしたように声を掛けてきた。「良いところに来てくれましたよ。」
「マスターよ。まずは『いらっしゃいませ』と挨拶するのが接客業の基本だぜ」マスターは良いヤツなんだが、すぐナアナアになってしまうところが玉に瑕。
「ああ、すいません。いらっしゃいませ。いや、まあそれはどうでも良いんですけどね」どうでも良くない「いやあ、健雄くんがここに来るなり固まっちゃってですね。もう二時間も。」
「二時間!?」パントマイムの練習でもしてるのか?確かにいつも元気な健雄が微動だにしない。よく見ると青ざめているようにも見える。「おい、健雄。どうしたんだよ。おい、おいってば。」
「ホントどうしちゃったんですかねえ、彼は?」ちょっと心配そうなマスター。客に対して親身なところは彼の魅力でもあるが。
「ちょっと荒っぽいけど・・・」健雄を椅子ごと思い切り蹴倒してやった。不意を付かれた健雄はゴロゴロと転がって柱にぶつかった。
「痛え!何をするんですか、ジェイさん!」顔を真っ赤にして怒ってやがる。顔色が戻って良かったな。
「何度声掛けても返事しないからさ。『幽体離脱』中かと思ったぜ」
「『幽体離脱』なんかしてませんよ!ただちょっと気になる事があって・・・」
「いったい何があったの、健雄くん?」マスターが『ABOTT』を差し出す。「これ、僕の奢りだから。取りあえず元気出しなよ。」相変わらず商売下手。

「実はですね、あまりにも凄い出来事に遭遇しちゃって・・・」健雄ごときの凄い事なんていうのは、道で転けたくらいの事だろう。「僕はよくクラブに行っているんですけど、いえ、お姉さんがいる方じゃなくて、もちろん踊る方のクラブなんですけどね。毎週末に通ってるからスタッフとも顔馴染みだし、常連客とも仲良いから、踊りにいく時はいつも一人でなんですよ。で、あれは一ヶ月ほど前の金曜日の事です。そう、今夜のように雲一つ無い、満月が印象的な夜でした。時間は日付を超える辺りだったと思うんだけど、ひとしきり踊った後にラウンジの方で中休みを取ってたんです。隣の席をふと見ると、ちょっと神経質そうだけどスレンダーで綺麗な女性がいたんです。若い頃の『Michelle Pfeiffer』に似てるんですよ。美人でしょ?猫系のオーラが出まくってました。その美しさにも惹かれたんですけど、それ以上に彼女の生活感の無さと言うか、全体的に漂うどこか刹那的な雰囲気に目が釘付けになってしまったんです。でも皆が楽しそうに踊ってるこの場から、完全に浮き上がっていたんですよね。ジッとダンスフロアを見つめ続けているので、連れが踊り終わるのを待っているのかとも思いましたが、どうやらそうでも無さそうなんです。なんて言うか、標的に焦点を合わせるクールな猛獣のような感じと言うかですね。」
「コードネームは『ジャッカル』というところだね。いや『デューク東郷』かも」なんだかマスターが嬉しそう。「僕は昔から暗殺者ものが好きでねえ。『必殺仕事人』とか『ザ・ハングマン』とか、毎回ビデオに録画して見てたんだよ。」
「ちょっとそれは、僕の世代で分からないんですけど・・・」そりゃそうだろう。「彼女の視線の先を追ってみると、そこにはここのクラブで『K』と呼ばれる男が立っていました。『K』は背が190センチくらいあって肩幅も広い凄くガタイの良い男です。そしていつも黒い革のロングコートを着ているんです。スゴく暑いクラブの中でですよ。僕が知る限り『K』が踊る事はなくて、ダンスフロアからVIPルームに抜ける通路の入り口付近に立ってるだけです。たまにVIPルームに出入りする客と何かこそこそ話していて怪しげなヤツなんですよ。クラブの常連客は『K』はバイニンだと噂していますが、彼からドラッグを買ったという話しは聞かないので、本当のところはどうだか分かりませんけどね。その『K』に殺意のこもった、と言ったら言い過ぎかも知れませんけど、鋭い視線を投げつけてるんです。」
「彼女が『K』の昔の女だった、という線も考えられなくはないね」マスターが鋭い指摘。「僕もいろんな女性を泣かせてきたから、よく分かるんだよなあ。」それは絶対に違う。
「そう取れなくもないんですけど・・・。もっとこう、なんて言うか、使命を帯びてる、みたいな雰囲気に感じましたね、僕は。それくらい冷徹な視線だったんですよ。傍目でみている僕でさえ、ちょっと恐怖を感じたくらいなんですけど、同時に惹かれてしまうと言うかですね。僕が見ている事に気が付いたみたいで、キッと睨まれました。慌てて目を反らしたんですが、彼女はサッと立ち上がってツカツカと僕のところまで歩いてきて、いきなりバチンと顔を平手打ちされました。もう唖然ですよ、こっちは。ポカンと口開けたアホヅラ晒してね。すると彼女は僕の手を取って、踊るわよ、と言ってダンスフロアに引っ張っていくんです。もうこっちは何がなんだか分かりませんよ。ダンスフロアに出ると、彼女はジーンズの尻ポケットに突っ込んでたキャップを目深にかぶって、僕の首に両手を回して濃厚なチークダンスです。胸がデカかったから、その感触が嬉しかったんですけどね。彼女は僕をリードしながら少しずつ『K』の方に近付いていくんです。なんかヤバいな、と思ったんですけど、不思議に抵抗する事ができないんです。そして『K』のすぐ側まで移動したんです。そしたら彼女がキスして、と言うんです。エーッて感じですよね。唐突だし。僕がモジモジしてたら、彼女が両手で僕の後頭部を抱え込んでブチュウですよ、それも舌をねじ込んできて濃厚なフレンチキスです。そう言えば、フレンチキスを軽いキスの事だと誤解している人って多いですよねえ。」
「マスター。健雄の話しにちなんで、俺にフレンチキスを」
「やだなあ、僕にそんな趣味は無いですよ、ジェイさん」引いてやがる。
「カクテルの『フレンチキス』をくれと言ってるんだ!」
「なんだ。安心しましたよ」アプリコットブランデーベースのほろ苦くて甘い香りは、まさに『フレンチキス』。
「彼女のキスに朦朧としていたら、僕の後ろの方からウッといううめき声が挙がって、その後にドサッと何かが倒れる音がしたんです。慌てて振り返ると『K』が倒れていました。呆然としていると彼女が、早くこの男を引っ張り出すのよ、と僕に命じるんです。何がなんだか分からなかったんですけど、言われるがままにズルズルと『K』の足を引っ張って、非常口から外に出ました。そこはクラブの裏路地なんですけど、彼女はその蓋を開けて、と言うんです。指差したのはマンホールの蓋。スゴく重い蓋をズルズルとずらしながら、やっとの思いで開けると、なんと彼女はマンホールの中に『K』を落とし込んだんです!大雑把に見えるかも知れないけれど、ここに捨てたらまずアシがつかないのよ、なんて言うんです。ちょっと待ってよ、これはどういう事だと僕は大騒ぎしたんですが、早く逃げなきゃヤバいわよ、貴方ももう殺人の片棒担いだんだから、と彼女はクールなんです。ハッと気が付いて無我夢中に走りました。彼女はどうしたかって?そんな事なんか知りませんよ。もうあれくらい全力で走り続けた事は、生まれて初めてだったですね。30分ほど走り続けて、家の前まで来た時は、もうしゃがみ込んじゃってしばらく立てませんでしたよ。」
「ちょ、ちょっとドアの鍵を閉めてくるね。こんな話しほかのお客さんに聞かせられないからさ」血の気が引いて真っ青になっているマスター。別に鍵を掛けなくても、こんなヒマな酒場にどうせ客なんて来やしない。「もうそれって犯罪だよ、健雄くん。なにもここで打ち明けなくても・・・」
「話してみろって言ったのはオレらだぜ、マスター」確かに緊張が体を走る。「失恋話でも、仕事のグチでも、たとえセンセーショナルな懴悔話でも、黙って聞いてやるのがあんたの仕事だぜ。」
「バーテンなんてやるもんじゃないって、つくづく思いましたよ、今日という日は」人並み外れた酒好きで、周囲の反対を押し切って開店したクセに。
「すいません、マスター。僕がこんな話しをできる場所ってここしかないから・・・」仕方ないぜ、健雄。誰にも話せない話しができるのは、酒場か教会しかありやしない。「それでドアを開けたら明かりがついてるんです。そして女物のスウェードのショートブーツが。部屋には、そうです、あの女がいたんです。ショーツにTシャツというラフな格好で『Budweiser』呑みながら、くつろいでやがるんです。何で君はここにいるんだ、何で僕の家が分かったんだって、僕が喚き立てると、これよって渡されたのが僕の財布。どうやら僕が『K』を引っ張ってた時に、尻ポケットの財布を抜き取ってたみたいなんです。財布に入っていた免許証で僕の家が分かったんでしょう。なんてヤツ!そのうえ、今夜は泊めて貰うわよ、って・・・。もう唖然、でしょ?」
「健雄の部屋に女がいるって事自体が、確かに唖然だな」
「茶化さないでくださいよ、ジェイさん」事実だろ。「その日はあまりにもいろいろあり過ぎて、僕も疲れてたんでしょうね。いつの間にか眠りこけてしまってて、気が付いたら朝でした。そこには窓を開け放って、手摺りに持たれてコーヒーを飲む彼女がいました。朝ご飯できてるよ、って言って、それは美味しい朝食を作っててくれたんです。一瞬昨夜の事も忘れて、とても幸せな気持ちになりましたよ。このまま二人で、ここに暮らすのも良いかなって。そしたら電話掛けたいから携帯貸してって彼女が言うんです。携帯を渡すとどこかに掛けて、何も話さずにすぐに切っちゃいました。ちょっと不思議に思いましたが、それはあまり気にせずに、幸福感を満喫してニヤニヤしながら食後のコーヒーを飲んでいたんですよ。でも落ち着くと昨夜の事件の事をちゃんと聞かなきゃいけないと思って、どういう事か説明しろ、と言ったんです。すると彼女はそんな悠長な時間は無いわよ、貴方が今ここで死にたいのなら別だけどね、と言ってニヤッと笑うんですよ。」
「ど、どういう事!?」相変わらず肝っ玉が小さいマスター。
「彼女は僕に何も説明せずに自分の持ち物らしいゴルフバッグを肩に掛けて、サッサと部屋を出ていくんです。慌てて僕も着いていきましたよ。そして彼女は僕のアパートの通りを挟んだ向かいにある5階建ての雑居ビルへ入っていきました。そのままエレベーターで屋上へ。僕の部屋が見える場所に陣取ると、彼女はなんとゴルフバックからライフルを取り出したんです!そして彼女が、この『M40A3』は頑丈で高精度なのは良いんだけどゴツゴツして可愛くないしメチャクチャ重いんだよねえ、と訳の分からない事言いながら銃口にサイレンサーをねじ込んでいるんです。僕が硬直していると、彼女が来た来たって言うから指差す方向を見ると、僕のアパートの前に黒塗りの『Mercedes Benz』が止まったんです。そして中からコワモテな人たちが三人降りてきて、僕のアパートに入っていきました。あいつらは誰なんだ、と彼女に聞くと、ちょっと黙ってて、と言って、ライフルを僕の部屋に向けて構えてるんです!拳銃を持った男たちが、ドアを蹴破って入ってくる様子がハッキリ見えました。全員が部屋に入ってきたのを確認すると、彼女はスコープで狙いを定めて一気に三連射!男たちはドサドサッと倒れました。彼女は、距離は大したことはないけど連射はスゴいでしょ、とか言って得意がってるんです。もう僕は、あうあうって感じで声も出ません。そしたら、行くわよって彼女が僕の手を引っ張るんです。ライフルはその場に置いたままで。そして今度は階段で一階まで降りて、入口の陰に二人で隠れました。すると『Mercedes Benz』に残ってた運転手役の男が降りてきて、僕のアパートに入っていきました。いつまでも仲間が戻ってこないんで、不審がったんでしょうね。その隙に彼女が『Mercedes Benz』の下に潜り込んだんです。ちょっとしてから這い出てきた彼女は、逃げるわよって言って、また僕の手を引っ張って雑居ビルの裏口から出ました。そしてちょうど停留所に停まってた路線バスに乗り込みました。タクシーとかで逃げなくちゃ危ないよって言ったんですけど、彼女はこっちの方が意外に見つからないものなのよ、と言って、僕の肩にもたれ掛かって、いきなりスヤスヤと眠り始めたんです。神経が図太いというか何と言うか・・・。」
「そう言えば『卒業』っていう映画でも、バスで逃げてたよな」
「そんなロマンティックな気分じゃないですよ、ジェイさん」そりゃそうだ。拳銃持って追いかけられてるんだし。「それから15分ほどしたら終点である繁華街に着いたんです。彼女を起こしてバスを降りると、オナカ空いたからゴハン食べよって僕の腕に自分の腕を回してきました。僕はもうメシとかそんな気分じゃなかったんですけどね。でも彼女と歩いてると誰もが振り返るんですよ。あんなにキレイな女の子は、そうはいないから当然ですけどね。自分が置かれてる状況も忘れて、思わずニヤけちゃいましたね。ここ美味しいんだよ、と彼女に言われて、オシャレなフレンチスタイルのカフェに入りました。オーダー取りに来たイケメンのギャルソンも、彼女の美しさに目を奪われてました。そして何度も僕と見比べて。何でこんな彼女と釣り合わない野郎と一緒にいるんだ、と不思議がってたんでしょうね。あっ、何か思い出して腹立ってきた!」
「これでも呑みな。アタマを冷やすには最適だぜ」カウンターにおいてあった『GET 27』をショットグラスに注いで健雄に渡した。
「ウッ、エグいっすねえ、これ。でも確かにアタマは冷えるけど」でもオレは嫌いだが。ペパーミントなんて男が口にするものじゃない。「僕は何も食いたくなかったんでコーヒー飲んでたんだけど、彼女は元気にカルボナーラをパクついてるんです。そして彼女は、食べ終わるとおもむろに話し始めたんです。昨夜からの何が何だか分からない出来事の訳を。彼女が言うには、『K』は実は街のバイニンとかそんなレベルの小者じゃなくて、某国の大使館付武官らしかったんです。それであんなにゴツかったんだなと、ガテンがいきました。そして『K』は裏の顔も持っていて、あるアジア系の裏の組織と組んで、新種の麻薬の商売を行っていたんです。それはドーパミンという脳内麻薬で、いや、覚醒剤や麻薬なんかもそれに近い分子構造を持っているんですが、それそのものらしいんです。それにやはり脳内麻薬であるセロトニンを組み合わせてるらしいんですけど、その加工技術と二つの脳内麻薬を繋げる何かの化学物質がスゴい発見らしくて、両方の麻薬のパフォーマンスを1+1=3という感じ引き出すらしいんです。快感物質と鎮静物質を組み合わせると、その相乗効果はスゴいらしいんですよ。コカインとヘロインを併用するスピードボールなんかが有名ですよねえ。えっ、マスターは知らないんですか?よく考えてみれば当たり前か。それは錠剤になってるらしくて、無味無臭だから麻薬犬にも嗅ぎつかれないらしくて、これが出回ると世界中大変な事になりますよね。だけどもっと問題だったのは、その製造方法です。その脳内麻薬を人工的に作るのではなくて、直接人間の脳から抽出するんです!その原料となるのは、身寄りのないホームレスや家出してきて街をフラつくストリートキッズたちなんです。そんなヤツらは街から消えた方が世の為、なんて言う人もいるでしょうが、人の命がそんなに粗末に扱われて良い訳がありませんよね。『K』は彼らを拉致しては、外交官特権を利用してアジアの某所にあるアジトへ連れて『輸出』していたんです。まるで食肉工場に送られるブロイラーのように。」
「そう言やあ昔どこかの国で、嫁を大釜にぶち込んで溶かして、石鹸作ったって話しがあったよな・・・」
「不気味な話しをしないでくださいよ、ジェイさん」お前の話も充分不気味だ。「彼女が僕に革の財布のようなものを見せるんです。手に取って開いてみると、そこには金色に輝く菊のバッチが貼られていました。そして『内閣情報室保安担当特別情報官』と書かれてあったんです。何故か名前は書かれていませんでしたが。要は国内担当のスパイだったんですね。『007』のように『殺しのライセンス』と言うか、殺人権限を持っているらしいんです。もちろん国益に関わる事に関してのみらしいんですけどね。それであんなに次から次と・・・。彼女はずっと『K』を追ってたんですね。」
「スパイって日本にもいたんだ・・・」マスターが絶句している。当然だが。
「何故ヤツらが僕の家が分かったかというと、彼女が僕の携帯使って掛けた先が『K』の携帯だったんです。始末した『K』の携帯をいつの間にか取り出して、クラブに置いてきたんですね。手グセが悪いと言うか、職人技と言うか。僕の番通から、ヤツらが裏のルートで、僕の住所なんかのプロフィールを調べ上げる事を予想してたんですね、彼女は。僕は言ってみれば、フライフィッシングのハエのようなものですよ。ホントヒドい女だ。そして携帯貸してって彼女がまた言うから、ここに再びヤツらをおびき寄せるのかと思って、ゾッとしたんですけど、二回も同じ手に引っ掛かるほどヤツらもバカじゃないでしょ、と彼女が笑うんです。よく考えたらそれもそうですよね。で、渡したらどこかにダイヤルして、コード『CCDO』でお願いします、とか言ってました。何かの略みたいなんですが。そして、分かりました、とだけ言って電話を切りました。じゃあわたしは最後の仕事をしてくるから、と言って席を立つんです。ちょっと待ってよ、と食い下がったんですが、そんなに貴方は死にたいの?と言われて僕は黙り込んでしまいました。そして店を出ていく彼女の後ろ姿を呆然と見送るだけだったんです。ふと思いついて、携帯の発信履歴を見てみると・・・110番でした。」
「ええっ?」声が裏返るマスター。
「家に帰るのもヤだったんで、それからしばらくは友人の家に泊めて貰いました。でもいつまでも帰らない訳にも行かないので、一週間ほどして怖々戻ったんです。ドアを開けてみると、なんとそこに彼女がいたんです。その場に立ちつくす僕に、彼女は淹れたばかりだよってコーヒーを手渡して。そして、もう全部終わったんだよって彼女が言うんです。彼女が言うには、『Mercedes Benz』の下でゴソゴソしてたのは、発信器を付けてたらしいんです。仲間が全滅して慌てた残党が、アジトに戻る事を計算してたんですね。携帯で確認してたのは、そのアジトの場所だったらしいんです。そしてライフルを置いていったのは、再び報復なり調査の為にヤツらが戻ってくる事を予想してたから。僕のアパートを狙う狙撃ポイントは自ずと特定されるから、そこにとても普通の女の子じゃ持てない重さの『M40A3』を置いていけば、暗殺者はゴツい男だと思うのが自然です。アジトは繁華街の近くにあるマンションの小部屋でした。そしてそのマンションのMDFと呼ばれる電話回線配線分配装置に分岐点を作って、バイパス線を造ったらしいんです。盗聴も目的の一つなんですが・・・。残党の一人が、女の子を呼ぶ電話をした時に業者の振りをして受けたんですね。残党が掛けた業者とは、風俗屋、つまりデリヘルです。彼女はデリヘル嬢を装って、堂々と部屋に入っていったんです。部屋にいたヤツらを全員射殺、戻ってきたヤツらも全員射殺です。生かして捕まえて、ルートを調べたりしないのか、と聞いたら、どうせこういう人間は、国で家族を人質的に取られているから絶対に本当の事は吐かないし、官憲に渡したところで刑務所出てきたら同じ事の繰り返しだから、全部殺しちゃった方が世の為なのよ、と言うんです。ちょっと背中に冷たいものが流れましたが、そう言われたらそう言う気もしました。」
「闇から闇へ、か」オレが死んでも誰も気付かない、というのと一緒かも知れない。
「そして彼女は、今回もいつも通りの害虫駆除でつまらない仕事だしイタチごっこなんだけど、貴方に会えたのはちょっと楽しかったよ、頼りないところはアレなんだけどね、とウインクするんです。そのまま部屋を出ていこうとする彼女に、君の名前を教えてくれって叫んだんです。そしたら彼女は、もし今度の満月の晩に出逢った夜のように雲一つ無かったら、新しいその日を迎えるその時に電話するわ、と。それが・・・」
「今夜だな、その満月の晩ってのは」窓から見える満月は、この薄汚れた街の空に浮かんでるとは思えないほど、青く妖しく輝いている。
「そうです、ジェイさん。今夜なんです。そしてその時間は・・・」
カウンターに置かれた健雄の携帯が青く輝き、『Mr. Moonlight』が流れる。

健雄よ。今夜は中秋の名月だぜ。
月夜の夜に、ちょっとエキセントリックだけど、可愛い仔猫に逢っておいで。
人生ってヤツは、多少破天荒でも、平穏よりはナンボかマシさ。