禿鷹亭綺譚
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ムーンライトハニー

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「だんだん日が落ちるのが早くなってきましたねえ」柄にもなくしんみりとした表情を浮かべるマスター。「僕は子供の頃から夕日を見るとなんだか泣けてきちゃうんですよ」
「それは結膜炎、という病気だ。サッサと眼科に行け」
「いつもジェイさんと話してて思うのは」溜息をつくマスター。「ワビサビとか、繊細な心とか、そういう人として大切なものが欠落している人と付き合わざるを得ない自分の不幸を感じてしまうんですよねえ。」
「そうか、珍しく意見が一致したな」思わずニヤリ。「オレも下ネタとゴシップ話しを最大の生き甲斐にしている男がカウンターに立つ潰れかけの酒場に通い続ける自分の愚かさを嘆いてるところだ。」
「そうですか!それは良かった!」心の底から嬉しそうなマスターが『Fighting Cock 6 Years Old』をショットグラスに注いでよこす。「永遠に交わらない僕らの友情に乾杯です、ジェイさん」
戦闘的な荒々しさを持つこの酒が舌にガツンと来た瞬間、バタンと派手にドアが開いてフリフリのマイクロミニを履いた女が入ってきた。
「やーん、マスター久しぶりー。やーん、ジェイたんも!」
アニメ声優のようなキュートな声にブリブリファッションで決めてるのは、ある意味この酒場のアイドルである亜優だ。
「ジェイたん、と呼ぶなと何度言ったら分かる?」
「やーん、ジェイたん。顔が怒ってて怖いよお。男の子は可愛く、可愛くね」
「まあまあジェイさん。ジェイたんでもジェイそんでも何でも良いじゃないですか。どんな名前で呼ばれていても、所詮タダの呑んだくれオヤジなんですから」
「マスター、あんた長生きとかには興味無いのか?」
「マスター、ジェイたん、お話しがあるのよ。ねえ、聞いて、聞いて」
「亜優ちゃん、また誰かをその気にさせておいて知らん顔って話し?」
「違うよお、マスター。人聞きが悪い事言わないで。私はいつでも真剣に恋に落ちてる純粋な乙女なのに」
「乙女、と言うのは、バージンの事だぜ。悪い冗談は止めろ」
「もー、ジェイたんたらあ。いつも女の子をイジメて喜ぶのは悪い癖だぞ」何も話す気力が無くなった。
マスターがニヤニヤ笑いながら、パイントグラスに『DELIRIUM tremens』をサーバーから注いで亜優に渡す。「アルコール中毒による幻覚症状」という銘柄名の通り、たかがビールと思って舐めていると気が付けばヘロヘロになっちまう代物だ。
「亜優ちゃん、これは僕が御馳走するよ。その楽しい話しを聞かせてよ」相変わらずの野次馬ぶり。そして商売下手。

夕日が落ちたが、空はまだ赤く染まっている。
そして美しいグラデーションの中に小さな月が。
切なさを司る女神の登場。

「一週間前の話しなんだけど」意外にも酒が強い亜優が、一気にビールを呑み干しておもむろに話し始める。「ポストに宛先が間違った葉書が入っていたの」
「それは、お前がもてあそんでストーカー化した男からの手紙じゃないのか?」
「えー、もしかしてー、ジェイたんも亜優のストーカーになっちゃったの?」
「どこをどう聞いたらそういう話しになる?」こめかみに青筋が立ってるのが自分でよく分かる。
「もう、この怒りんぼさん。あんまりプリプリしてると早死にしちゃうよ」キャッキャと笑い転げる亜優。怒る気も失せた。「それでね、その手紙は私の住んでいるマンションの1011号室に送られてきたんだけど、そんな部屋は存在しないの。私の部屋が1010号室で、そこが角部屋だからそれ以上の部屋番号は無いの。そして葉書の宛名は、愛由へ、とそれだけ書かれていたの。漢字は違うけど私と同じ名前だから、ビックリしちゃったあ」
「やっぱりそれは亜優ちゃんのファンの男が間違えただけじゃないの?だって酒場で自己紹介する時は漢字まで言わない事が多いし、部屋番号だって単純ミスとも考えられるし」
「それが違うんだなあ、マスター。その葉書がこれなの。見てみて」
その葉書には確かに亜優の言うとおりの宛先と宛名、そして裏面にはこう書かれている。『いつまでも僕の大切な宝物、愛由へ。今日、約束の10年が経ちました。君と会いたい気持ちを一生懸命堪えてこの10年間生きてきました。正確には10年と11日ですね。君と過ごしたその1011号室と同じ月日待つのが約束だったから。その部屋からしか見えないあの教会にかかる夕焼けは、今でも僕の心に焼き付いています。でもやっと君に会えるのですね。君に貰ったあのアルバムを持って、何度も一緒に夜を過ごしたあのカフェで君を待っています。中秋の名月の夜に』と。
「部屋から見える景色ってヤツは・・・」
「ジェイたん、それが不思議なの。私のマンションの少し先に有名な建築家が設計を手掛けたオフィスビルがあるんだけど、そのビルの真ん中にデザイン的にポコンと穴が開いていて、そこからビルのあちら側が見えるの。でも角度的に私の部屋からしかその教会は見えないの。屋上からでは駄目。ビルが微妙に邪魔して見えないの」
「その部屋に入らない限り見れない景色って訳か」
「そして私は一年前にこの街に越してきたから、その送り主の人は知らない。でもスゴく気になるでしょう?だって私と同じ名前の人に宛てた葉書だし、そのラブに溢れた文章も」
「ラブって、お前・・・」思わず苦笑い。「でも確かに興味が惹かれる話しではあるな」
「でしょでしょ?だからねえ、亜優ねえ、会いに行っちゃったのよ、その約束の夜に、そのカフェに」
「おおっ、相変わらず怖いモノ知らず、と言うか、考えるより身体が反応してしまう亜優ちゃんらしいね」
「ヒドいなあ、マスター。亜優はそんな子じゃありません!」
「ま、当たらずとも遠からずってところだけど・・・。まあ、とにかく話してみろよ、その出会い系なお話しを」
「もう、ジェイたんっていっつも毒舌なんだからあ。そんなんじゃあ、いつまで経っても女の子にモテないぞ」
「お前・・・」意外と図星。
「アハハ。それでね、そのカフェに行ったら・・・」

時が経ち、月がその大きさを増す。
都会の汚れた空気に滲みながら。
だけどその夜空に溶け出す妖しい光に心惹かれるのは何故だろう?

「指定されたカフェは、大きな川が海に変わる辺りの川岸にあるオープンスタイルのフレンチカフェ。知ってる?」
「ああ、この街に最初にできた草分けのカフェだよな。ムサいオレには似つかわしくない場所だけど」
「私は当然その人の顔を知らない。でもカフェに写真アルバムを持ってきてる人なんてそうはいない筈だからすぐ見つかると思ったんだけど、それがなかなか見つけられない。どうしよう、と思っていると、テラス、と言うかボードウォークのテーブル席に男の人が座っていたの。なんだか物思いにふけってる様子で、川に映った月をボンヤリ見ているの。近付いてみるとテーブルの上には『Breakfast at Tiffany's』のサントラ盤が。CDじゃなくて昔のアナログ盤ね。ああ、アルバムってレコードだったのねって思って、この人が葉書の送り主だって分かったの」
「僕はあの映画の『Moon River』って曲が好きでねえ。あのメロディが流れてくると涙がこぼれちゃうんだよ」
「それは結膜炎だ。早く眼科に行け。いや、心の病だ。心療内科に行け」
「さ、センチメンタル、という素敵な感情を理解できない心が荒んだ人は放っておいて、と。で、その送り主の人はイケメンだったの?」
「あんたもセンチメンタルが何たるかを理解していないようだけどな」
「うん、とっても素敵な人。どこかに影があるんだけど、優しげでそれでいて男らしくて・・・。でも驚いたのは、私の顔を見た瞬間に、愛由!って声を上げたの。私の事を知るはずがないのに・・・」
「なんだか面白くなってきたな。マスター、あんたのレシピでブルームーンを」
往年の名曲からインスパイアされて考案されたカクテル、ブルームーン。ジンベースで、月明かりの色を出す為にバイオレットリキュールを使う。だが、実際見た目は青と言うより紫。その名に偽りあり、という感じか。マスターのオリジナルレシピは、バイオレットリキュールは薫り付けにカクテルグラスをリンスするだけで、シェイクはしない。だからジンが注がれたグラスは透明。そこに月下美人の花びらを散らす。月下美人は一年に一夜だけしか、その花を咲かさない。そのはかない運命の花は、蒸留酒に漬け込むと保存できる。マスターはこのカクテルの為だけに月下美人の鉢植えを育てている。ちなみに通常は月に見立てたレモンピールを浮かべるのだが、マスターのブルームーンは、三日月型のカットライムをグラスの縁に刺し込む。つまり月に照らされて美しく輝く女性、という訳だ。その酒の色は青くはないけど、そんな見た目よりも何よりも、酒に込められた思いの方が呑み手には伝わるもの。そしてこのレシピだと、不味いカクテルの代表であるブルームーンが美味く頂けるって訳だ。
「私は確かにアユだけど字も違うし貴方と会った事は無い、葉書に興味を持って貴方に会いに来ただけなの、と何度も説明したけど、彼は納得しないの。いや、絶対君は愛由だ、そんなにうり二つの女性がこの世にいる訳がない、たとえいたとしても僕が待つこの場所に現れたのが偶然とは信じられないって言うの。当然よね、彼がそう思うのも。もしホントに愛由ちゃんが私に似ているのなら、だけど」
「偶然にしても、あまりに不思議な話しだよねえ。僕が考えるに、彼は亜優ちゃんの事を下調べしておいて亜優ちゃんが興味惹かれる話しをでっち上げたのだと思うよ。好奇心旺盛で行動力溢れる亜優ちゃんの性格も知っててね」
「まあ、そういう線も考えられなくはないけど、もしそうだとしたら、何故亜優の部屋から見える景色まで葉書に書けるんだ?亜優の部屋に不法侵入したのか?それともヘリをチャーターして確認したのか?」
「でも、亜優ちゃん部屋の前の住人だった、という線も考えられますよね」マスターにしては鋭い意見。
「ううん、それはあり得ない。入居する時に不動産屋さんに聞いたんだけど、私の部屋はこの10年は空き部屋だったらしいの。それに私、こう見えても一度も男の人を部屋に入れた事は無いんだよ。だからどういう事かお話しを聞かせて下さいってその彼にお願いしたの。そしたらね・・・」フフフッと悪戯っ子のように笑う亜優。
「いいから早く続きを言えよ」
「彼は、君が・・・君が月から帰ってくるのを待ってたんだよ、と言うの」
「つ、月!?」マスターと二人して思わず声を上げる俺。

その昔、『月世界旅行』という小説があった。
いつの時代も人は月に異世界を求めた。
いや、正確にはこの地球と似た世界。
そして地球と月は、惑星と衛星ではなくて「双子星」なのだ。

「その彼って・・・もしかして電波系の人?」マスターがそう思うのも仕方がない事だろう。
「正直私も、この人カッコ良いけど心を病んでる人なのかな、と思っちゃった。でもね、話しを詳しく聞かせて貰ううちに、もしかして本当の話じゃないのかしらって思えてきたの」
「イケメンに弱いのは変わってないな」
「やーん、ジェイたん。私はいつもジェイたん一筋よ」またまた苦笑い。「でね、10年前に彼は、街外れのいつも霧が掛かっている山で愛由ちゃんに出逢ったらしいの。それも早朝の竹林で。」
「何でまたそんなところで・・・。農村に嫁を、みたいなテレビの企画か?」
「そんな企画だったら亜優も絶対行くう!」だろうな。「でもそうじゃなくて、彼はアウトドア大好きな人で、イカダを作ろうとしてたらしいの。地主に許可を貰って材料にする竹を切り出しに行ってたのね。ナタを持って一心不乱に竹を切ってたら、彼の目の前がパッと明るくなった。顔を上げるとそこには、早朝の太陽の光を浴びて白いドレスを輝かせる美しい女性が立っていたの。彼は凄く驚いた。山奥の竹林に場違いな格好をした女性が突然現れたら誰だってビックリするよね。君は誰だ?って彼が聞くと、いいじゃない、そんな事、と彼女は答えてくれない。で、逆に貴方は何故竹を切っているの?と聞かれたから、イカダを作る為だ、と答えると彼女は目を輝かせて、私も手伝うからイカダに乗せて、と言うの。戸惑いながらも彼は承諾した。二人で竹を川の岸辺に運んで、彼が手際よく荒縄でイカダを組んだの。ゆるやかな流れの渓流をイカダで下ったんだけど、水しぶきを浴びてキャッキャと屈託無く笑う彼女に、彼は心を惹かれていったのね。」
「僕も高校生の頃のデートは、お堀の公園のボートって決まってたなあ。広い空間に二人だけしか入れない場所。そういうシチュエーションってお互いの気持ちがドンドン盛り上がるんだよね。タマらず彼女に襲いかかろうとするとボートのバランスを崩して、いつも間抜けなオチになっちゃってたんだけど」
「やーん、マスター可愛い!マスターも高校生の頃があったのね。想像できなーい!」失礼な事を可愛く言うのはいつもの事ではあるけど。「で、彼と彼女はその夜に川岸に張った彼のテントの中で結ばれたの。そして彼は彼女に名前を聞いた。そう、愛由ちゃん。美しい名前だね、と彼が言うと、私はこの星に本当の愛を探す為にやって来た、それが私に与えられた使命なの、だから私は愛由と名付けられた、と言うの。愛の由来を探る為に、という事ね。彼は混乱しながらも彼女の話を聞いた。愛由ちゃんは月の住人で、高貴な家柄のお嬢様。でも男を男と思わない奔放すぎる振る舞いで、愛を捧げる人を傷付け続ける愛に欠けた女の子だった。そして月の司政官である父親が、断腸の思いで彼女に月からの追放を命じたの。地球で真の愛を見つける事ができたならその時は月の使者が迎えに来る、それができなければお前は月夜を飛び回るコウモリとして一生地球で暮らす事になる、と。そして与えられた期間は月下美人が花を咲かす夜まで、と言われたの。」思わずマスターと二人、ブルームーンを覗き込む。
「だけど・・・月下美人って、その株ごとに開花日は違うよね?都市伝説では一斉に咲くとは言われてはいるけど」
「愛由ちゃんが地球に降り立った場所に咲いてた月下美人の咲く日まで、という事なの。そしてそこが彼が竹を切っていた竹林。愛由ちゃんは街で暮らしていたんだけど、やっぱり月下美人が気になるから、暇があれば生育状況を確認しに来ていたの」
「そこで彼と出逢った訳か・・・」運命の出逢いが、必ずしも幸せな出逢いとは限らない。
「逢ったばかりだけど、二人は一緒に暮らし始めた。それが例の1011号室なの」存在しない部屋で愛を深める二人。いや、愛、というものの存在すら実は誰も実証できないのではないか。「二人は心の底からお互いを愛してたのだけど、それが父親から出された条件である本当の愛、というものなのかどうかが分からない。不安を抱えながら、だけどそれを打ち消すように、まるで残された時を惜しむかのように、何もかを投げ打ち、いっときも離れずに愛を確かめ合う二人。そして鉢植えにして二人の部屋のベランダに移された月下美人を、恐る恐る覗き込む毎日。それは愛の素晴らしさと別れの恐怖が交錯した日々だった。そしてとうとう中秋の名月の夜に美しい薫りを放つ月下美人の花が咲いたの」

月下美人は月光に照らされその花を輝かす。
「ポジティブ」な陽光は素晴らしい。
だけど「ネガティブ」な月光は、人の「根っこ」を照らし出す。
そしてそこに「真実」が潜んでいたりするものなのだ

「そ、それで愛由ちゃんのところには月から迎えの使者が来たの?それともコウモリに?」野次馬根性とある種の怯えでドモるマスター。
「うん、二人もどんな裁定が下されたのかに怯え震えながら、月下美人を開花から花がしぼむまで一晩中見守り続けた。そして・・・最後の花びらがしぼんだ瞬間、天空の満月が青く光り始めたの!」思わず息を呑むオレとマスター「満月を背に12人の使者がゆっくりとゆっくりと降りてきた。二人が立ちつくすベランダの前の空に並び浮かぶ使者たち。『姫、お迎えに参りました。貴方は真の愛を手に入れました。月に帰る許しが降りたのです』と愛由ちゃんに告げたの。」
「コウモリにならずに良かったんだけどな・・・」それは二人の別れをも意味する訳だ。
「彼は彼女を渾身の力で抱きしめ叫んだの。『彼女は絶対に渡さない!真の愛を手に入れた二人を引き離すなんて馬鹿げてる!俺は彼女がコウモリになってしまったとしても一生愛し続ける!絶対月には帰さない!』と。彼女も、帰りたくない、コウモリになってもずっと彼と一緒にいたい、と泣き続けた。だけど使者たちの操る妖術によって愛由ちゃんは、あっけなく彼の腕から使者たちの元へと吸い寄せられた。彼は必死に取り戻そうとするんだけど、そこは普通の人間は立っていられない空。喚き叫んでもどうにもする事ができないの」
「僅かな距離にいる愛しあう二人が手を取る事さえできないなんて何という不幸なんだ」涙ぐむマスター。「こんなに嫌いあってるジェイさんが、いつも手が届く場所にいる僕も不幸だけど」一言多い。
「でもね、使者の長がベランダの月下美人を指差しこう言ったの。『その花を見なさい。一夜限りの花が夜も終わろうとしているのに花びらが落ちない』と。ハッとして月下美人を見ると、花はしぼんではいるが散ってはいない。『花が散らないのは受粉したから。貴方と姫が真の愛で結ばれた証です。愛を咲かすのは容易い事ではありません。だけど心で繋がるのはもっと難しい事。貴方たちは見事に心の底から結ばれました。だけど姫はいずれは月の世界を統べる施政者の者です。どんなに貴方たちが辛くても、姫を月に連れて帰らねばなりません。だけど10年後の一夜だけ、姫がこの星に戻る事を許しましょう。貴方がその夜まで姫だけを愛し続ける事ができたなら』と。そして愛由ちゃんを連れた使者たちは月へ帰っていったの。」
「現代の『竹取物語』って訳か・・・」
「中秋の名月って旧暦の8月15日ですよね。それは確かにかぐや姫が月に帰って行った日ですね・・・」
「だけどオリジナルではリターンマッチは無かったな。」
「彼に、でも私は貴方が愛し続けた愛由ちゃんじゃない、私はずっとこの地球で生きてきた普通の女の子なのって言ったの。彼は黙って私を見つめ続けた。そして、『分かった、亜優ちゃん。君は愛由とは別の女の子なんだね。でも君に会えて良かった。そして月に感謝する』と言って去っていったの」
「10年と11日待ち続けたのに気の毒ですねえ」
「いや、彼はやっぱり愛由に逢えたんだ」
「ええっ!どういう事です?」
「亜優はやっぱり愛由だったんだよ」
「ジェイたんって・・・」目をつぶり弱々しげに首を振る亜優。「そのあと気になって色々と調べたの、私。実は私の住む部屋はやっぱり1011号室だったの」
「ええっ!?」目を見開くマスター。
「最初あのマンションには4の付く部屋はどの階にも無かったらしいの。不吉だからってね。だけど郵便物の誤配が頻発して住民のクレームが多くなってきた。ワンルームマンションだから若者しか住んでいないので、誰も迷信なんて信じてないだろうと、マンションのオーナーが普通の部屋番号順に戻す事を決断したのね。それは私が入居する前の話し。だから私の部屋は昔は1011号室だったのね。」
「今のマンションは4の付く部屋なんて当たり前だからな」
「お前がアーパーなのは、昔の交通事故のせいだ、ってジェイたんがよく言うよね?」
「ああ、あれは確か10年前の卒業式の帰りの話しって言ってたよな・・・」
「実は私、その後しばらくの記憶がぽっかりと欠け落ちているんだけど、田舎の母に聞いてみたの。そしたら私は、事故の傷害で記憶喪失になってたらしくてしばらく入院していたんだけど、ある時フラッと病院から抜け出して行方不明になった。半年ほど経った中秋の名月の夜に何事も無かったようにフラリと帰ってきたらしいの。行方不明になってた間の事は何も覚えていなかったんだけど、事故以前の記憶は完全に思い出していた。無事に戻ってきた事だし、これ以上私の心に負担をかけるまい、と両親もそれ以上はもう何も問わなかったの。
「確かに時期的なタイミングだけ見れば不思議な一致点もあるけど、それだけじゃあ・・・」唸るマスター。
「そうね、確かにそうよね。でも不動産業者にしつこく聞いたら、実は10年前に半年だけカップルが住んでた記録があるって言うの。じゃあ、何故それを私が入居する時に教えてくれなかったんですか、と言うと、実はその部屋に住んでいたカップルの男性が、飛び降り自殺をした、と・・・」
「じ、じ。自殺?」声が裏返るマスター。
「そう。そして半狂乱になった女性は、警察の現場検証の最中に消えてしまって行方知れずらしいの。しばらく捜査は続いていたらしいんだけど、事件性も薄い事から早々に捜査は打ち切られた。だから男性の自殺の動機は不明のままなんだけど、その消えた女の子の名前は確かに愛由だったらしいの。不動産屋が部屋に残されていたたった一枚の写真を見せてくれた。そこには愛由ちゃんが映ってるんだけど、それはスナップ写真で真正面からのショットじゃないので顔が良く確認出来ない。でも不動産屋は貴方にどこか似てますねえ、と言ってたけど。よく見るとめくれた袖口には紫色の傷跡があるの。そしてそれは私にも」
袖をめくって傷を見せる亜優。そこには確かに痛々しい傷跡が。
「これは交通事故の時の傷跡なの。という事は・・・」
黙り込む三人。だが重たい口を開く。
「・・・お前が月のお姫様なのか、彼が最愛の女性に会いに来た亡霊なのかは分からない。でもお前はアーパーだけど今を幸せに生きてる。そして彼もお前に逢えて良かったと言った。それで・・・それでいいんだ。それで、もういいんだ」
「うん・・・私もそう思う。全然覚えてはいないんだけど、乙女の頃に素敵な素敵な恋をできたんだから。そして覚えてはいないけど、大好きな人に再会出来たんだから。私は誰よりも幸せな女の子なの」
「まあ、女の子って歳ではないけどな」
「もう!ジェイたんのイジワル!」
笑い声が朽ち果てた酒場に広がる。

愛しあう二人にも悲しい別れが訪れる事はある。
それは二人の力だけではどうにもならない力が働いたのかも知れない。
だけど、心の底でその想いを消さなければ、いつか、いつの日か必ず再会できるはず。
陳腐なセリフになっちまうが、それが「ラブパワー」ってヤツなのさ。

アネモネの涙

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「人を愛しすぎるとアタマがイカれてしまったりするもんなんですかねえ?」などとホザく青年の名は浩紀。一昔前の少女マンガで、主人公の憧れの先輩役で出てきそうな優しげな目元のナイスガイ。
「女の子と何か良い事でもあったの、浩紀くん?」マスターがニヤニヤしながら興味深げ。
「実はですねえ。俺、今まで黙ってたけど、アニーと付き合ってるんですよ」悩み、と言いつつ、どこか誇らしげ。
「ええっ!アニーちゃんと付き合ってるの!僕、大好きだったのに・・・」半泣きのマスター。「ヒドいよ、浩紀くん。僕に黙ってお客さんに手を出しちゃうなんて」
「すいません、マスター」恐縮しきりの浩紀。「先月のマスターの誕生日に常連客が『コンドル』に集まったじゃないですか。マスターは酔いつぶれてたし、ジェイさんはフラリとどこかにいなくなってしまったし。最後まで残ってたのは俺とアニーだけで、酔いのせいでなんだか盛り上がってしまって。いや、そういう言い方は良くありませんね。前からアニーを気に入ってたのは事実だし。それからの事ですから、まだ一ヶ月ちょいくらいなんですけどね。」
「じゃあ、僕の寝ている横でキスなんかしちゃった訳だね。なんて事を・・・。」既に自我が崩壊しているな。
「まあ、落ち着けよマスター。あんたがアニーを好きだったなんて話しは俺だって知らなかったし、本人同士が好き合ってしまったらもう仕方がないぜ。だいたいどちらにしても、マスターのあんたが客に手を出すのは御法度だろうが」そう言いつつも喉の奥に苦いものが上がってきた。何故って?それは俺もセクシャリティ溢れる魅力的なアニーに惹かれていたから。
「俺、本当にアニーに夢中になっちゃってて、もう一日中彼女の事ばかり考えてるんですよ。いい年して我ながら情けないとは思うんですけどね」いや、彼女に限ってはそうだと思う。「ただ、最近どうも腑に落ちない事があってですね。それを考え出すと何も手が着かなくなっちゃって。」
「それはただの色ボケだ!あんなに綺麗な子を彼女にしておいて、自慢げに悩みなんか語らないでよ!」男の嫉妬は見苦しいぞ、マスター。
「もういいから、あんたは黙ってろ」だけど俺だって心にモヤモヤしたものがあるのは事実だが。「その腑に落ちない事ってヤツを説明して見ろよ。」
「一人の人間が二人になる、って言って、意味が分かりますか?」少し薄気味悪いが、プラナリアのようなものか?「二重人格、いや、ドッペルゲンガー、いや、狼男、いや、うーん、なんて言ったら良いのだろう。要するに、男が女に、女が男に変身するんです。」
「なんだか訳が分からないが、オモシロそうな話しだからこれを呑めよ」カウンターに置いてある『OUZO』のボトルを浩紀に渡した。「グラスに注いで水で割れ。」
「うわっ、透明の酒が白くなっていく!スゴい」
ギリシャのアニス系リキュールである『OUZO』は透明な酒なのだが、加水すると白濁する。水分の比率が上がると、アルコールに溶け込んでいたハーブオイルが膜を張り、乱反射して白くなるというカラクリ。まさに『変身』する酒なのだ。
「さあ、気付けができたのなら、その妖しげな話しを聞かせろよ」

子供の頃は誰だって「変身」に憧れていた。
男の子はヒーローに、女の子はお姫様に。
いや、大人になった今だって・・・。

「こういう話しを他の人にするのはルール違反だとは分かっているんですが」野次馬根性だってルール違反とは分かっているのだが。「正直に言って、俺はアニーとのセックスに中毒状態なんです。もうそれは恥ずかしいくらい。ベッドの上はもちろんの事、風呂でもトイレでも、いや野外でだって。俺はどちらかというと淡泊な方と思っていたんですが、こういう話しをするのもなんですが、今じゃ彼女が愛おしくてアタマのてっぺんから足の先まで嘗め回すぐらいの野獣ぶりなんです。」
「下ネタで飛ばすには、まだ時間が早すぎるぜ」確かにアニーは、見るからに「麻薬」的なオンナ。でもその素性は誰も知らない。まあ酒場の客の素性など、チンケなアイドル歌手程度にしか興味は無いが。「マスター、ベタだけどノリ一発で『セックス・オン・ザ・ビーチ』を浩紀に作ってやってくれ。」
『セックス・オン・ザ・ビーチ』は、映画『Cocktail』に登場して日本でも有名になったカクテル。だけど味のバランスは悪いし、そのネーミングの奇抜さを除けば、とても自分じゃ呑む気にならない甘いだけの代物だ。
「隠し味に青酸カリでも入れておきますよ」まだ拗ねてるマスター。
「『セックス・オン・ザ・ビーチ』と言えば・・・この間の日曜日にアニーと西のビーチへ行った時の事なんです、その『変身』疑惑のきっかけは」愛が深いほど疑惑はつきものなのだ。「道など無い林を抜けたところに、知る人ぞ知るシークレットビーチがあるのですが、その夜はラッキーな事に誰一人いませんでした。深夜だったからかも知れませんが。灯りも用意していなかったのですが、月明かりが海面に反射して、ビーチは結構な明るさ。穏やかな潮風に髪をなびかせるアニーの美しい横顔を見ていると、思わず我慢できなくなってしまって抱きしめてしまいました。そして誰もいない開放感もあって、生まれたままの姿で砂浜で身体を合わせたんです。普段は暗くてよく見えなかった彼女の身体は、月明かりに晒されてスゴく綺麗だったのですが、ある事に気が付いたんです。ヒップの割れ目の終わる辺りと言うか、腰の辺りと言うか、そこに『カクレクマノミ』のタトゥーが。あの『FINDING NEMO』で有名になった可愛い熱帯魚です。実はまったく同じタトゥーを、俺は見た事があったんです。それはここにもよく呑みに来るアズの身体のまったく同じ場所で」
「アズって、あのダイビングが趣味で、カリブの海に入れ込んでいるイケメンのアズか?」
アズはこの朽ち果てた場末の酒場には似合わない美形の若者。いつも『コンドル』の開店早々に現れて、ハイチのラムである『BARBANCOURT』を、ストレートで数杯引っ掛けて帰って行く。ダイビングが趣味なのに、不思議な事にその肌はいつも白く美しい。そういえばアニーは、この『BARBANCOURT』を垂らしたハイチコーヒーをいつも飲んでいた。『コンドル』のハイチコーヒーは、本物のハイチ豆で淹れているのが気分。
「アズとは年もタメだし気も合う。俺にとって『コンドル』で一番仲の良いノミトモです。俺はサーフィンやってるし、アズはダイビング。今年の春に二人とも海のスポーツやってるんだからと、一緒に石垣島に行ったって話しは前にしましたよね?」
「お前が一生懸命ビーチでナンパしてたのにアズは素知らぬ顔で、滅茶苦茶ムカついたとか何とか言ってたな」
「そうです。あいつスゴくモテるくせに、ストイック過ぎると言うか。ワンナイトラブなんて興味ない、なんてスカした事抜かすんですよ」ワンナイトラブは酒場の醍醐味なのに。「アズにダイビングを教えて貰いながら、石垣の海に潜ったんですけど、それはもう感動するほどの美しさで、まさに熱帯魚が踊る竜宮城でした。何度も石垣の海に潜っているアズに先導されて、カクレクマノミの集まるポイントへ。本当に可愛くて、可愛くて。海から上がった後は、俺、もう興奮状態で、カクレクマノミの話しばかりアズにしてたんです。そうしたらアズが、『僕のカクレクマノミを見せてあげようか』って、訳の分からない事を言うんです。自分が飼ってるカクレクマノミを見せてあげる、という意味かとも思ったんですが。ところがヤツはいきなりウエットスーツを脱いだんです。そしてその腰には、カクレクマノミのタトゥーが。エラく可愛いタトゥーを目立たない場所に彫ったもんだな、と言ったら、『このカクレクマノミは、ファッションじゃなくて僕の願いを掛けたタトゥーなんだ』と言うんです。じゃあ、その願いって何だ、と聞いても、笑うだけで全然教えてくれなかったんです。」
「僕の勘ではね」マスターの勘が当たった試しはない。「カクレクマノミってイソギンチャクを宿主として生きる魚だよね。イソギンチャクって、ほら、よく女性器に例えられるじゃない。だからいつでも女の子とヤレますように、という願いを掛けたんだと思うよ。」脱力感が。
「アズはそんな願いを掛けなくても、その気になればいくらでもヤレると思いますよ。あれだけのイケメンだし」俺もそう思う。「じゃあ誰に彫って貰ったんだ、と聞くと、ヤツがよく潜りに行っているハイチで彫って貰った、と言うんです。それもブードゥーの呪術師にって。オレはよく知らないんですけど、ブードゥーって針さし人形とかゾンビとかですよね。少しアズが薄気味悪く思えましたよ。」
「いや、それは偏見だ。ブードゥーはそんなに恐ろしいものじゃなくて、庶民に崇められている普通の宗教だぜ。別にキリスト教や仏教と何ら変わりはない。確かに呪術効果が凄いという話しは聞いた事があるが。ま、カクレクマノミが泳ぐカリブ海の美しいハイチは、ブードゥー国家として有名だけどな」俺は無神論者だが。「あっ、待てよ。もしかしたら、その願いって・・・」
「何です?タトゥーに掛けられた願いは?」
「カクレクマノミは性転換魚、つまりオスがメスにトランスセクシャルする不思議な魚だ。と言う事は・・・」

ギリシャ&ローマ神話の美少年アドニス。
そして美と性愛&官能の女神アフロディーテ、つまりヴィーナス。
ヴィーナスは息子キューピッドが誤って射た愛の矢で傷を負い、アドニスに恋に落ちた。
しかし不慮の事故で命を落としたアドニス。
悲しみにくれたヴィーナスの涙が、もしくはアドニスの血が「変身」した花がアネモネだという。
そして「ヴィーナスの花」とも呼ばれるアネモネの花言葉は、「はかない恋」。

「それから俺は、アニーとアズの同じ場所に同じタトゥーが何故あるんだ、と悩み出しちゃったんです。それはある種のジェラシーだったと思います。でも二人に血縁や恋愛関係があるなんて話しは聞いた事も無いし、だいたい二人に聞いてみてもお互いを知らないと言うし」永遠の愛の印という可能性も考えられるって訳か。「でも、そこで気が付いたんです。二人とも『コンドル』の常連客だけど、オレが知る限り二人がここで同席した事が無いと言う事に。」
「そう言えばアズくんは遅くても9時までには帰ってしまうし、アニーちゃんは12時前に来た事は一度も無いよね」酒場ってヤツは、その時間帯で表情を変えるもの。
「そうなんです。それだけではなくて、アニーは絶対深夜にしか会ってくれません。そしてアズと石垣に行った時も、一緒に呑もうと内線で誘おうとしたのですが電話に出ない。まだ10時過ぎで、大人が寝るような時間ではなかったのですが。まあ、その時は、ダイビングの疲れがあるのだろうと思って、大して気にしていなかったんですけどね。でも、そこでまた、不可解な事があったんです。」石垣島にはその昔、人魚さえ住んでいたという伝説の島だから、神秘的な話しがあってもおかしくはないが。「翌朝チェックアウトしようとフロントに行った時の事です。宿泊したリゾートホテルのメインバーはカードキーで精算できるのですが、前日にアズのカードキーで精算した女性客がいたらしいんです。その時はバーテンダーも気が付かなかったらしいんですけど、バーの日報と宿泊台帳の摺り合わせで、その宿泊客は男性であるはずなのに女性が呑んでた事が分かったんです。だからカードキーの盗難と思われて、フロントが確認してきたんですね。アズはたまたま石垣で知り合いに会ったので、カードキーで精算する事を承諾して貸したのだ、と言っていたんですけど。でも、俺はそんな話しは聞いてなかったし、アズの日頃の行動から見て考えにくい事だったし。まあ、ホテル側は、女性の連れ込みはご遠慮願います、とかイヤミを言ってたから、華を売る女性を部屋に呼んだと解釈したみたいですけどね。でも実は同じ頃に俺もそのバーで呑んでいて、席は離れていたのですがその女性を見てたんです。スゴく美しくて妖しい女性だった。あまりジッと見る訳にもいかないので、チラッと程度ですが。でも思い返してみたら、アニーに似ていたような気がするのです。」
「本当に不可解な話だな」だけどオンナにまつわる話しは、多少不可解な方がそそられるもの。「まあ、お前に隠してアニー、もしくは別の似た女性を連れて来たという線も考えられなくは無いけど」
「可能性としては、そうなんですけど・・・。」どんな可能性だってこの世ではあり得るもの。己のステディが実は己の娘だったなんて話しでさえ、酒場には転がっている。「実はこういう事もあったんです。さっきも話した通り、俺はセックス中毒状態なんですけど、あれだけ激しい反応をして自ら積極的に求めてくるアニーなのに、身体に傷が入る事を極端に嫌がっていました。もちろん冗談なんですけど、SMごっこで手錠プレイとかしてみない?と言った時など、烈火のごとく怒られました。そこまでいかなくともキスマークは絶対につけないで、とキツく言われていたし。でも俺にしてみればこんなに愛しているのに、未だに自分の素性を何も話そうとしないアニーに、疑惑が沸き始めていたんです。実は人妻か何かで、別に男がいるんじゃないかってね。逢える時間が限定されたりしてるから、俺がそう思うのも変じゃないでしょ?そこでルール違反だとは分かっていたんですけど、セックスをしている時に彼女に分からないようにキスマークを付けたのです。もし他にオトコがいるのなら、ちょっとしたトラブルになるのを想定して。姑息な考えとは分かっているんですけど、どうしても疑惑を解明したくて。まあ彼女はその最中は、もの凄くオルガスムスを感じるタイプなので、それが可能だったのですが。下顎の辺りに鏡で見ても確認できない位置にですね。そして翌日この『コンドル』に呑みに来たら、アズがマスターやジェイさんとバカ話しで盛り上がっていました。大笑いしている彼の横顔をふと見ると、何とその下顎には・・・」
「キスマークがあった訳だな」想像しただけで凍り付きそうな光景。でも双子の片割れが傷つくと片方にも傷が、なんて話しも聞いた事はあるが。「己の愛の証が、なにゆえに友の身体に、か。」
「当然俺は滅茶苦茶に混乱してしまいました。そして、とても考えられない話しだけど、もしかして二人は同一人物ではないか、と思い始めたのです。荒唐無稽なお話しだとは分かっているのですが。いえ、二人は顔立ちも似てませんし、声も性格も何から何まで違います。共通しているのは、その素性が、と言うか過去がよく分からない事だけです。そして頑なにそれを話そうとしないところもですけどね。」
「こう言っちゃなんだけど、アズくんとアニーちゃんが仮に同一人物だとして、例えばアズくんが女装してたとか、逆にアニーちゃんが男装してたとかは考えられないの?」
「それはありえません。俺とアズは今でもよく海にサーフィンやらダイビングに行きますが、俺の前で堂々と裸になって着替えてるし、アニーとはもちろん体の関係があるから女性である事はよく知っています。二人とも正真正銘の男と女です。」
「俺は二人ともよく知っているが、あまりにも見た目が違いすぎて、表面的に化けただけ、とは考えにくいな」『James Dean』と『Marilyn Monroe』が同一人物だと言っても、誰も信じないのと一緒。「でも今気付いたんだけど、二人が『コンドル』に初めて顔を見せたのは同じ日だったな。」
「ええっ、そうなんですか!」
「そう、二人とも初めて会ったここの客は俺の筈だぜ」
「ジェイさんは僕が迷惑だと言っているのに、毎晩毎晩ここで呑んだくれていますからね。二人に限らず、ここの全ての客が初めて会ったのがジェイさんなのは当たり前です」招き猫か疫病神か。まあ今の『コンドル』を見る限り後者のようだが。「これが美しい女性だったらウェルカムなんだけど、毎晩ムサいオヤジの相手をさせられる僕って世界一不幸ですよね。」
「あんたとはいつか決着をつけるとして」冗談を言ってる訳ではない。「あれは去年の夏の事だぜ。その頃はこのダサいマスターが四柱推命に凝っていて、当たりもしないのに客を手当たり次第に占っては得意がっていたんだよ。浩紀だってその被害者になってただろ。でも、たいして常連客もいない酒場だから、アッという間に占い尽くしてしまった。だから一見客が入って来ると、貴方の運勢を占ってあげますよ、と怪しい新興宗教もどきでとっ捕まえてたんだよ。あれでだいぶ客を逃した筈だぜ。まあ、それはともかく、アズが飛び込んできた時も占っていたんだけど、その日が偶然にもヤツの誕生日だった。マスターもお祝いでシャンパン開けてたしな。そして深夜に飛び込んで来たアニーも誕生日だと言う。まあ12時を超えてたから、厳密には誕生日の翌日だけど。マスターが二本もシャンパン開けて大赤字だ、とかブウ垂れてたんでよく覚えてるぜ。」
「思い出してみればそうでしたね、二人とも誕生日が一緒・・・あっ、そう言えばそれって今日ですよね!」なんと言う偶然。しかし偶然が起きやすいのが酒場という場所。「アズくんとアニーちゃんから別々に、誕生日に皆で呑みたいからってワインを預かっていたんですよ。」
マスターがカーブから持ってきたのはフランスを代表する二本のワイン。どちらも特製木箱に入っていて、アズが持ち込んだのは、男性的と言われるブルゴーニュで女性的なボディを持つ『ROMANEE CONTI』。アニーが持ち込んだのは、女性的と言われるボルドーで男性的なボディを持つ『CHATEAU LATOUR』。何かを隠喩してるかのよう。
「二人ともエラく張り込んだな」マスターから木箱を見せて貰った。「あれ、ワインの下に何か入ってるぜ。」それはどちらも浩紀宛の手紙だった。
「その手紙、オレに読ませてください」二つの手紙を読んだ浩紀の顔が、驚愕と困惑が入り交じった表情になっていく。「これは・・・」

その人生の軌跡が驚くほどに接近していても、交錯せぬまま、なんてザラな事。
だが「触媒」に触れると、その道筋が変化する事も。
そして酒場は人生の「触媒」でもあるのだ。

「浩紀くん、手紙にはなんて書いてあったんだい?」
「それが・・・どちらの手紙にも信じられないような内容が書いてあるのですが・・・」
「お前が構わなければ、読んで聞かせてみてくれよ」
「はい、分かりました。俺だけでは判断が付かないのでマスターやジェイさんにも意見を貰いたいし」的確なアドバイスを与えられるかどうかは保証しないが。「アズの手紙から読みます。『大切な友である浩紀へ。君とは一年前に『コンドル』で出会いましたよね。二人とも海を愛する人間なので、すぐに意気投合したのを今でもよく覚えています。酒場だけではなく、一緒にいろんなビーチで遊んだものです。親友と言える友人を持たない僕にとっては、君はかけがえのない宝物でした。そして君と人生で一番素晴らしい時間を過ごす内に、自分の中に友情とは違う感情が芽生えてきたのに気付いたのです。とても君は嫌がると思いますが、それは君を愛しいと思う気持ち、そう、君に恋をしてしまったのです。誤解しないで貰いたいのですが、僕はその人生の中で、同性に恋愛感情を抱いた事はただの一度もありません。だから僕自身スゴく悩みました。何度も君の前から立ち去ろうとしましたが、君が恋しくて結局それは出来ませんでした。何度も君にこの気持ちを伝えようともしましたが、普通の異性愛者である君が受け入れてくれるとは到底思えませんでした。そこで僕はある決断をしました。僕がハイチの海を愛して何度も訪れていたのは知っていますよね。そこである願いを掛けてブードゥーの呪術師にタトゥーを彫って貰った事も言いましたよね。その願いとは、君を愛する事を許される本物の女性になる事。僕の腰に彫られたカクレクマノミは、オスからメスに性転換する魚です。ブードゥーの秘術を使って、そのタトゥーにはパワーが宿りました。そう、僕は本当に女性になったのです!君を愛するアニーという名の女性に。でもそれは闇の力が働く午前零時から夜明けまで。それを超えると男性に逆戻りです。呪術師は言いました。一年の時を過ぎる前に、己の愛する者の己への愛を手に入れる事が出来たなら、そのパワーは永遠のものへと変化するだろう、と。そして僕は、いやアニーは君の愛を手に入れました。この一ヶ月は、僕にとって至福の時でした。本当に幸せだった・・・。でも永遠のパワーを手に入れた僕は、このタトゥーと、それに秘められた闇の力を消し去らなければならないのです。その為に僕は、今日ハイチに飛び立ちます。そして君の前から立ち去ります。だって僕の身勝手な愛情で、大切な友である君を騙したのだから。僕は遠いカリブの海から君の事をいつまでも想っています。ごめん、そして、今までありがとう。親友、そして愛する人、浩紀へ。』と・・・」
「絶句、という感じですね」と言うか、少し背筋が寒い。「いくらブードゥーの呪術が凄いとはいえ、そんな事が本当に可能なんでしょうか?」
「うーん、世界にはオレが知らない現象があるのかも知れないが・・・」男が男を愛する、というのも、俺にとっては未知の現象だが。「浩紀、それでアニーの手紙は?」
「それが、こっちには全然違う事が書いてあるんです」バイセクシュアルとかの話しなら、オレの守備範囲を超えている。「とにかく読んでみます。『愛する浩紀へ。貴方を愛するが故に、貴方の元を離れる事を決断しました。そして今さらですが、貴方に話してなかった事実をお話しします。実は私は純粋な日本人ではなくて日系ドミニカ人、戦後に日本政府が募集した移民事業で入植したドミニカ移民の三世なのです。夢を抱いてドミニカに渡った祖父ですが、現実は政府の謳うような夢の土地ではなく、開墾が不可能な僻地が与えられたのです。それでも何年も荒れ地を耕しては作物の種を植え続けたのですが、いつまで経っても収穫はできない。失意のままに祖父は亡くなりました。残された家族は、それでも生きていかなければならない。まだ若き父は日系人の少年たちと徒党を組みドゥアルテ山にアジトを造って、通行人を襲う山賊となったのです。当時のドミニカは、独裁者の『Trujillo』大統領が支配してたのですが、山岳地までは実効支配できてなかったのですね。時折山を降りては、ドミニカ軍基地に夜襲を掛けては武器を強奪し、武装勢力として軍閥化していきました。そして反政府組織のOLM、つまりドミニカ解放運動に合流したのです。父の組織はOLM内では、もっとも武闘派として恐れられたのですが、それは日系人であるという特殊な事情があったから。目立つ功績を挙げなければ、仲間に認めて貰えなかったのです。だけど規律違反があれば仲間でも容赦なく鉄の制裁を加える冷徹さに、父を疎むメンバーも多かった。ある時、父がアジトで作戦会議を開いている時に、反対勢力の急襲を受けました。居合わせた幹部のほとんどは射殺されましたが、父と数人はなんとか逃げ出す事が出来たのです。とは言っても、そのままドミニカにいるのは命取りなので、山岳の国境線を越えてハイチ側に逃げ込んだのです。ドミニカとハイチはイスパニョーラ島という島を分け合う国々なんですね。父は首都ポルトーフランスのダウンタウンを縄張りとして、腕づくで現地のストリートギャングを傘下に収めていきました。「カリビアンドラゴン」という異名で、父は現地の人々に恐れられました。そして中南米に広がる反政府組織のネットワークを使って、コロンビアから米国へのコカインの中継基地として財を成したのです。だから南米の麻薬組織撲滅に躍起なアメリカにとっては国家の敵。何度もDEA、つまりアメリカ麻薬取締局や、米軍の特殊部隊の襲撃に遭ったのですが、悪運の強い父は逮捕される事も殺される事もなく、未だにハイチの裏組織の黒幕として君臨しています。実は私には唯一の兄弟である弟がいるのですが、私たちは二卵性の双子なのです。そして幼い時に父が二人の腰にタトゥーを彫ったのです。常に戦乱に揺れる地で、たとえ生き別れになったとしても分かるように、と。それはカクレクマノミのタトゥー。他の魚はその毒で傷付けるイソギンチャクの中で美しく楽しげに生きるカクレクマノミに、ギャングとして生きる身でも子供達だけは守るという思いを重ねたのでしょう。悲しい事にハイチへの逃避行の時に弟とは生き別れになったのですが、今から数年前の事ですが実は日本にいるという情報を得たのです。どういう事かと言うと、どうやら離ればなれになった弟は、ドミニカの首都、サントドミンゴの日本大使館に逃げ込んで保護されてたらしいのです。そして帰国したと。大人になった弟、そう貴方の親友であるアズは、ハイチを度々訪れていて、彼を知っているハイチ人が、私と同じ場所に同じタトゥーを持つアズが私と何らか関係があるんではないかと伝えてくれたのです。そしてその幼い日の面影しか記憶に残らない弟に会う為に、私は秘密裏に日本に来たのです。でも私はアメリカ政府に追われる身。私の首には高額の賞金が掛けられています。アメリカから多数のバウンティハンターが、一攫千金を狙って日本に来ているのです。だから私は常に居所を替えながらアズを探しました。行動するのは深夜のみ。彼の出入りするダイビングショップのオーナーから、彼が『コンドル』という良い酒場を見つけたと聞いたとの情報を得たのです。そして彼が泊まる石垣のホテルの部屋を尋ねると、彼はそうとう驚いていました。それはそうでしょうね。もう死んだと思った家族が突如目の前に現れたのですから。でも、彼は私の出現を喜んではくれませんでした。家族に見捨てられたとの思いから、私は憎悪の対象でしかなかったのです。それでも弟と向き合って話したい気持ちは変わらず、『コンドル』に通い続ける中で、追われる身でありながら貴方と出会い、貴方を愛してしまったのです。貴方は悲しみの中で出会った私の宝物だった。でも、もう日本に居れないのです。先日、日本の協力者から、私が『コンドル』に通っている事がバウンティハンターたちに知れた、との情報が。それだけではありません。日本の警察にもDEA及びFBIから正式に逮捕要請が来たそうなのです。日本とアメリカには犯罪人引き渡し協定が結ばれているので、逮捕されればアメリカの監獄行きです。誓って言いますが、私は父と違って悪事には手を出していません。でもそういう事情は、国際政治の中ではほとんど意味を成さないでしょう。ハイチへの外交カードとして利用するのが、アメリカの目的ですから。このまま日本にいれば、大切なアズや愛する貴方に何らかの危害が及ぶ可能性があります。だから私は日本を去ります。貴方と過ごした日々は死ぬまで忘れません。遠いカリブの海から貴方を思い続けます。ありがとう、そして、さよなら。愛する浩紀へ。』と・・・」

アネモネは風の妖精の化身とも伝えられる。
日が落ちたり雨が降ると、その美しい花びらが閉じるのは、妖精を守る為、と。
その花びらを無理矢理開いて吐露するのは、愛するが故の切ない決断。
はかない恋ほど純化していくものなのだ。

「どちらの話しが真実なんでしょうか?」それは神のみぞ知る、だ。「俺にはもう分からない・・・」
「どちらの話しが真実なんてオレらには分かりやしない。大切な事はお前のアズ、いやアニーに対する気持ちだ。」愛、だけは信ずるに足りるもの、と思いたい。「オトコが転生したオンナ、もしくは国際的犯罪者として追われるオンナ。そういうオンナをお前は今でも愛しているのかどうかだ。」
「それは・・・」即答できなくても当たり前。「俺はやっぱりアニーを愛しています。アニーにどんな凄い事情があろうと、やっぱり俺には一番大切な人です。俺は彼女を失いたくない。絶対に。」
「それなら話しは簡単さ。」人生に迷った時は、もっともシンプルな選択肢を選べ、という事。「それならサッサと追いかけりゃいい。それだけの事さ。ニューヨークで乗り換えで、優に20時間は掛かるけど、明日の朝一番で発てば深夜には彼女の笑顔を拝めるさ。一日遅れのハッピーバースデイを祝ってやれよ。」
「はい!じゃあ俺はもうこれで。」
「あっ、浩紀くん。この二つのワインも持って行きなよ。アニーちゃんと二人で乾杯しなさい。」たまにはヤツでも気が利くな。「僕も大好きだったんだよ、とアニーちゃんに伝えておいてね」
「はい!では!」
「引き際が悪いのはあんたの特徴だけど」まあ、そういうところもネタ的に魅力とも言える。「あのワインも惜しかったな。替わりに何か飛び切り美味いワインでも振る舞ってくれよ、マスター。」
「ジェイさんには、これがお似合いだと思うなあ」と、『Mercian』.。
「よし、今夜こそはカタを付けようぜ、マスター。覚悟しときな。」

美しく妖しいオンナは、それ自体が真夏の夜の夢。
突拍子もないお話しだって、身を纏うベールのようなものに過ぎないのさ。

霧のサンフラワー

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「ここんところ毎日雨が続いてイヤですね、ジェイさん」開店早々あくびをしながらボヤくマスター。「今夜なんてうっすら霧まで出てますよ。また、お客さんの出足が悪くなっちゃうなあ。」
「この店に客がいないのは雨のせいじゃないだろ」正直マスターはメシ食えてるんだろうか、と心配になる時がある。「でも、こういう静かな雨の日も良いものだぜ。芭蕉も『春雨や 蜂の巣つたふ 屋根の漏り』なんて詠ってるし。まあこの長雨は春雨と言うより春霖って感じだけど」
「しゅんりん?中国人の名前ですか?」菜種梅雨、とも言う。「まあ何でも良いや。ジェイさんの話しにまともに付き合ってたらオヤジ臭くなるから、気にしちゃいられませんけどね」
「おい、マスターよ。接客業のイロハを俺が一から教えてやろうか?」このオヤジには一度ガツンと言わねばなるまい。
「ジェイさんの戯れ言聞いても、何の参考にもならない・・・あ、いらっしゃいませ」
ドアの方を振り返ると、この霧雨に身体を濡らした長い髪の女が立っていた。見かけない顔だが、優しげな美しい眼を伏せがちに佇む様は、まさに『水も滴るいい女』というところだ。
「濡れちゃったから・・・タオル貸して貰えますか?」魅力的なハスキーボイスだ。
「はいはい、どうぞ、これ」マスターが嬉しそうな顔をしているのは、売り上げが上がるからだけではないだろう。「こちらに座りませんか?ストーブのそばだから暖かいし。横に辛気くさい人がいるのは気にしないで下さいね。」殺意、とはこういう時に生まれるものだろうか?
「ありがとう。あら、このストーブって『Aladdin』ですね。懐かしいわ」俺の後ろ辺りに置かれた、ところどころ塗装がはげてサビが浮いている『Aladdin』は、最近のもののようにチムニーガードなど付いていないシンプルな50年代のものだ。
「へえ、これって『Aladdin』って言うんですね。実家のガレージで使ってたヤツを勝手に持ってきたんで、名前なんか知らなかったなあ」
「父の書斎に置いてあったんです。書き物をする父の横で、暖を取りながら母のお手製のクッキーを食べるのが好きだったの。もう子供の頃の話しなんですけど」子供の頃があったとは思えないほど大人びた女性ではあるが。「ホットバタードラムをください。『MYERS'S RUM』を使って。」
「分かりました。うちのホットバタードラムは、『ECHIRE』の発酵バターを使うから飛び切り美味いですよ」どの酒も驚くほど安く出してるのに、素材にはこだわる心意気は素晴らしいのだが、原価計算ができてないだけかも知れない。「そして最初の一杯は僕の奢りです。貴女にウェルカムの気持ちを込めて。」気持ちは分かるけど、相変わらず商売下手。

外はシンシンと雨が降り続いている。
時に雨は、華やいだ気持ちを削いでしまう事もあるから、憂鬱に感じる事もある。
だけど痛んだ心を静かに癒したい時には、優しい雨音が傷口に染み渡る。
俺も寂しかった子供の頃は、一人雨降る窓の外を眺めて過ごしていた。
その頃を思い出すような、優しく静かな雨。

「ところで君の名は?」雨音(あまね)という名のような気がした。
「野暮は止めましょうよ、ジェイさん。会ったばかりの女性に、いきなり名を名乗れだなんて」
「いえ、いいの。かすみ、と言います。」確かに夕霞という雰囲気だ。
「質問ばかりでなんだけど、何故傘も持たずに?今日は朝からずっと雨が降り続いているのに」
「そうね、確かにそうね」でも俺だって雨に濡れたい時もあるのだけど。「会ったばかりの貴方にこんな話しをするのは迷惑かも知れないけど、誰かに聞いて貰いたい気分なの。構わないかしら?」
「ああ、もちろん。酒場とはそんな場所さ」
「マスター、『MASSANDRA』の『Livadia』なんてないでしょうね?」
「ありますよ。何年物が良いですか?」
「えっ、本当にあるの?もし可能なら1956年をボトルで」
「分かりました。でもお値段が・・・」
「大丈夫。ジェイさんにもグラスを」
「では遠慮なくいただくよ」
『MASSANDRA』は、黒海に面した保養地として有名な現ウクライナのクリミア半島マサンドラ村にある、ロシア皇帝所蔵のワインコレクションを引き継いだ世界最大のワインセラー。『Livadia』は『Cabernet Sauvignon』種のポートタイプで薫り豊かだが、大人の男に少し甘過ぎる。
「たぶんジェイさんには甘いでしょうね」お見通しのようだ。「でもこの『MASSANDRA』は、父や母、そして私にとって一番大切なワインなんです。」
「だけど『MASSANDRA』が解禁になったのは、つい10年ほど前の事ですよね?」と、マスター。ボーっとしてるようで、さすがはプロ。
「一般的にはそうなんだけど」そう言って一気にグラスを空けるかすみ。見た目の弱々しさとは裏腹に結構酒豪なのだろう。「わたしの父は、東京外国語大学が戦後に新制大学になった時の一期生だったの。当時の日本はもちろんアメリカの占領下にあって、思想や文化、そして価値観もアメリカの影響が大きかった時代でしょう。硬骨の人だった父は、そういう無節操な風潮に反発を感じていて、当時のアメリカと並ぶ両雄だったソ連、今のロシアを研究する道を選んだの。父は共産主義者ではなかったんだけど、大学に入った後に起きた朝鮮戦争は、父のアメリカへの憎悪感と祖国日本への失望感を決定づけたみたい。ロシア語の習得の為に雑音に悩まされながら自作ラジオでモスクワ放送を聞いていた父は、日本の新聞では伝えられなかった現地の惨状を知っていたのね。特に米軍によるナパーム弾の使用が、もっとも許せなかったみたい。父は年老いてからも、核爆弾にも匹敵する犯罪だとよく言ってたわ。もちろんモスクワ放送だってプロパガンダだから、鵜呑みにできないのも事実ではあるんだけど。」
「ナパーム弾って知ってます、ジェイさん?」
「あんたが死んだら飲酒の悪業で送られる焦熱地獄のようなものさ」『MASSANDRA』が急にイヤな苦みを増した。「ジェル状に加工したナフサ、つまり揮発油とパーム油を仕込んだ爆弾の事だよ。爆発するとナパーム油が一気に広がって炎上する焼夷効果が強い爆弾なのさ。そのジェル状のナパーム油が人間の肌に付着すると粘着して取れないから、それはもうムゴい死に様らしいぜ。今は『特定通常兵器使用禁止・制限条約』で禁止されたけど、米軍は今でも平気でイラクなんかで使ってるけどな。」
「そういうジェイさんこそ邪淫の悪業で大焦熱地獄に送られるくせに」フン、と鼻を鳴らすマスター。
「その朝鮮戦争の特需に日本は沸いた。第二次世界大戦では、焼夷弾で国土を焼け野原にされ、多くの尊い命を失った日本が、その戦争のおかげで復興出来たのも皮肉よね。当時の日本の状況を考えてみれば、生きていく為には仕方なかった事でもあるんだけど、まだ若かった父には許せなかったんでしょうね、そういう日本人の姿勢が。そして相対的にソ連が素晴らしい国家に思えたんでしょう。父はソ連への傾倒を深めて、卒業後にロシア語通訳になったの。」
「その夢の国家、ソ連は既に無くなってしまったけど・・・」ソ連、という国名も忘れかけていた。
「まだ若かったけど高いレベルでロシア語ができる貴重な人材だった父は、政府や民間の使節団に随行してよくソ連に行ってたの。そしてソ連外務省の女性日本語担当通訳官と知り合った。彼女はソ連では有数の日本語エキスパートで、日本文化に傾倒していた。ロシアを愛する日本人の父と、日本を愛するロシア人の彼女。親しくなるのは当然と言えば当然よね。ネットなんて無い時代だから、文通で親交を温めた。そしてプラトニックではあるけど、愛情も。父はロシア語で、彼女は日本語で文を書き綴ってきた、というのが、なんだかお互いの優しさに溢れていて微笑ましく感じたわ。そして理想の国ロシアでの永住を切望していた父の為に、彼女は諜報部門の要職に就いていた父親のフェリックスに頼み込んで、父はヤルタのインツーリストに迎えられたの」
「ヤルタって『ヤルタ会談』で有名な街ですよね」
「ソ連時代のヤルタは、共産党幹部や高級官僚、将軍などの別荘が建ち並ぶ高級リゾート地だった」下層階級のオレにはまったく縁の無い場所という訳だ。「そしてインツーリストは、今でこそただの国営旅行会社だけど、ソ連時代の裏の顔は西側世界を掻き回した諜報機関、KGBの手足でもあったのさ。」
「父はフェリックスの別荘に住み込む事になったの。でもね、彼女がヤルタという街を指定してきたのは、別荘があるからという理由だけじゃない。父が愛したその女性の名は、アナスタシアと言うの。アナスタシアは、粛清の嵐が吹き荒れる当時のソ連では、誰にも話す事の出来ない自分の生誕にまつわる秘密を愛する人だけには打ち明けたかったの。」
「アナスタシアって、最後のロシア皇帝、『Nicholas II』の末の皇女で、その行方が謎とされている『Anastasia』と同じ名前だな」同名のビバリーヒルズのセレブレティ御用達眉サロンもあったが。「生誕の秘密って・・・。でも、まさか・・・」
「そう、そのまさかなの。皇帝一族はロシア革命で処刑されてしまったけど、当時17歳だった『Anastasia』は一人生き延びたと信じてる人も未だに多いのは知ってるでしょう。そういう映画もハリウッドで何度か作られたし。父はアナスタシアからの手紙でその真実を知った。アナスタシアは、その伝説の『Anastasia』の娘だと言う事を」
「それが本当の話しなら世界的な大ニュースだな」
「フェリックスは皇帝を支える貴族家の一員だったの。でも一族の当主がクレムリンに入り込み我が物顔で国政を掌握してた怪僧『Rasputin』の排除を皇帝に進言したんだけど、それが結果的に仇となってクレムリンから追放された。だからフェリックスは、激しく皇帝を憎んでいたの。だから貴族の身でありながら、17歳という若さでロシア革命に身を投じた。そしてソビエト政府成立後、共に革命の死線をくぐり抜けた兄貴分的同志で、本名を捨ててまでその名前まで貰ったKGB初代長官の『Feliks Edmundovich Dzerzhinskii』に引き立てられて、主に国内保安を担当する諜報機関であるGRUの幹部となったの。フェリックスは貴族出身で上流社会の内情にも詳しく人脈もある。そして『Anastasia』本人をよく知っている彼に与えられた任務は、その彼女を見つけだす事。当時から彼女が生きているという噂はロシア中に流れていたんだけど、もしロマノフ朝直系の血族である彼女が生きていたならば、反共勢力に錦の旗として担ぎ出されるかも知れない。だからソビエト政府にとって彼女は、是が非でも抹殺しなければならない存在だったのね。フェリックスはロシア各地に逃げ延びた貴族を捜し出しては、容赦ない拷問を繰り返し情報を集め続けた。そして10年後、とうとう彼女を見つけ出した。そしてその場所がヤルタ近郊のリヴァディアだったの。」

人はその生まれる場所を選ぶ事はできない。
高貴な血筋が幸せの障害になる事だってある。
自由に勝る贅沢はない。
今の時代でさえ、その自由を持たざる人々がなんと多い事だろうか。

「革命の動乱で拘束された皇帝一族は、ウラル山中に幽閉されていたの。愛する家族は悲しい事に銃殺の憂き目にあってしまったんだけど、『Anastasia』だけは命からがら抜け出して、何十日も掛けてクリミア半島にあるリヴァディアへ向かった。何故リヴァディアなのかって?それはそこに彼女が子供の頃から愛したリヴァディア宮殿があったから。ヤルタ会談が行われた場所として有名なリヴァディア宮殿は、降り注ぐ日光ときらめく海が印象的な皇帝家の夏の宮殿。彼女のお気に入りは、海を見下ろす皇帝執務室からの美しい黒海の眺めだったらしいわ。一日中薄暗くて厳寒のモスクワ育ちの彼女にとっては、それは桃源郷のような場所。動乱を逃れ、傷ついた彼女の心安まる場所は、ここしかなかったんでしょうね。」
「南へ、南へ、と自分に言い聞かせながら逃げ延びたんだろうな」歯を食いしばって歩く17歳の少女の姿を思い浮かべると、切なさが込み上げてくる。
「裸足で遠路を歩き続けて、足を血だらけにしてね」だけど立ち止まれば、その命を落とす事も彼女は分かっていたのだろう。「なんとかリヴァディア宮殿に辿り着けたのだけど、もちろんノンビリ過ごす訳にはいかない。『Anastasia』である事がバレてしまえば、一巻の終わりだからね。だから宮殿の幼い頃から親しい侍従の計らいで、名前を変えて宮殿のワイン農園に農婦として潜り込んだのよ。」
「その農園で今でも作られているワインが、この『MASSANDRA』の『Livadia』・・・」
「そう。でも彼女はこのリヴァディアを心の底から愛してたから、逃亡者であるという状況や過酷な農作業にも心を閉ざしてしまう事はなかった。持って生まれた天真爛漫な性格は、より光り輝き村の人々からは、ヒマワリと呼ばれて皆に愛されていたそうよ。それからの10年間、普通の農婦として精一杯生きていたのだけれど・・・」
「見つかっちゃった訳ですね、フェリックスさんに」
「そう、母との絆が決め手となってね」大切なものが皮肉にも己を窮地に追い込む事もある。「幽閉中に母である皇后『Alexandra』は、自分たちが助からない事を覚悟していた。だけどせめてまだ若い『Anastasia』だけには生き延びて欲しい。そして自分たちが命を失う事があっても血族の証を残しておきたいと、彼女の右のヒザ裏に小さくロマノフ家の紋章を彫ったの。でも村の共同浴場でそれを見た村人たちの間で、静かな話題となっていたのね。その噂をフェリックスに嗅ぎ付けられてしまったの。」
「愛する娘への深い愛情が、結果的に彼女を追いつめる事になるなんて」涙ぐむマスター。
「そして10年の月日を経てやっと彼女を見つけたフェリックスは、自分の眼で確認して本物である事を確信した。幼い時の記憶だけが頼りだけど、粗末な服を着ていても隠しきれない気品のある立ち振る舞い。そして天真爛漫なハジける笑顔。だけどフェリックスは彼女を拘束する事にためらったの。それは気高い皇族だからではなく、その美しさからでもない。泥に汚れ、汗まみれになって、誰よりも一生懸命に働く『Anastasia』。命ある喜びと労働の尊さの象徴であるかのようなその姿にね。ソビエトは労働者と農民の同志たちが作り上げた国家じゃないか、彼女を捕らえて銃殺に処す事は我々の基本理念の否定ではないか、とフェリックスは悩んだの。そして彼女が葡萄の収穫作業を終えて帰る夜の農道を待ち伏せた。フェリックスの突然の登場に彼女は驚いたけど、いつかこの日が来るとも覚悟していたの。だけどフェリックスは言った。『僕は明日のこの時間まで、久しく取っていない休暇をこの美しいリヴァディアで取る。その間に君はオデッサ経由でコンスタンティノーブルへ船で渡り、オリエント急行でパリへ。そしてそこから自由の国アメリカへ行きなさい。アメリカに行けば、あなたは本当の自由を得る事ができる。追っ手の恐怖に怯えながら生きて行かなくても良くなるのだ』と。」
「フェリックスさんは良い人だったんですね」
「でも彼女はその申し出を断ったの」命より大切なものを持つ者は気高い。「彼女は言った。『わたしは今では名を隠して生きている逃亡者の身だけど、愛するロシアの国民に支えられて生きてきた皇族です。命惜しさに祖国を捨てるくらいなら、このロシアの大地で銃殺刑になる道を選びます』と。国家に追われる身でありながら、その国家と国民に忠誠を誓う彼女の誇り高き姿にフェリックスは感銘を受けたの。同時に命を賭けて彼女を守る事を心に誓った。そしてそれは恋の始まりでもあったの。」

人は太古の昔は獣であった。
獣はその命の火を消さぬ為に、他の獣を追い続ける宿命にある。
そして生への執着心とは、己と愛する者の『血』を未来へ残す為の本能、という事に他ならない。
狩りは、すなわち愛なのだ。

「フェリックスはリヴァディアのGRU支部への転属を願い出たの。GRUは要人警護も主要任務だから、共産党書記長の別荘もあるリヴァディアへの転属という腕利きのフェリックスの希望は受け入れられた。そしてフェリックスは『Anastasia』を嫁に迎えたの。もちろんその出自も本名も隠したままで。その三年後に娘が生まれ、フェリックスはその子にアナスタシアという母親の名前を授けた。アナスタシアは『復活』という意味の言葉でもある。いつの日か『復活』して常に太陽を向くヒマワリのように、身を隠す事無く生きていけるような世の中になって欲しいとの願いを込めてね。」
「そのアナスタシアが、君の父親が愛した女性な訳だ」
「そう。父とアナスタシアは10年にも渡る文通で愛を深めた。その手紙の記述によれば、アナスタシアは大学を出て社会に出るその時に、両親からその出生の秘密を初めて聞かされたの。まさか自分の母親が伝説の『Anastasia』であった事に、スゴく驚いたのも当然よね。だけど死去直前とは言え、独裁者の『Stalin』が国家の全権を掌握していた当時のソ連では、口を避けても言えない事実でもあったの。」
「愚かな指導者によって、2000万人以上もの尊い命を散らせた時代だからな」権力、というものは、悲しい事だが庶民の為に使われる事がほとんど無いのは、その歴史が証明している。「でも何故アナスタシアは日本に興味を持ったんだろうな?」
「それはね、母親の『Anastasia』にとって日本は憧れの国だったからなの」ヨーロッパの上流階級の東洋趣味は、伝統的なものではあるが。「『Anastasia』が幼き日のロシアは、領土拡大の為の東方政策に力を入れていて、皇族も日本語の修得に熱心だったの。彼女の日本語教師は太平洋側のロシア沿岸に漂着した日本人漁師だったのだけど、日本語教育の傍らに祖国への郷愁もあって日本の素晴らしさを事細かに彼女に伝えた。美しい四季のある日本、権力闘争に明け暮れるロシアの皇族や貴族と違って万世一系で国民に敬われる天皇の存在、そして暖かい春の雨。彼女の中で日本は夢の国になっていったのね。ロシア革命時に日本がシベリア出兵したのも、赤軍に追われる皇族の彼女からすれば、援軍的な印象を持ったのかも知れない。」
「あれは革命の混乱のどさくさに紛れて、国家権益を確保しようとした暴挙なんだけどな」火事場泥棒とはまさにこういう事を言う。「そのうえ日本政府の勅命を受けたスパイの『明石元次郎』中佐は、革命勢力に裏で資金を流したりしてたしな。いわゆるマッチポンプってヤツさ。」
「『Anastasia』はまだ見ぬ理想の国の話しを、夜毎ベッドで娘に話して聞かせたの。その寝物語を聞いて育ったアナスタシアが、日本への憧れをふくらませたのは当然よね。」
「ワイルド気取って不潔なジェイさんは、『あか太郎』が子供の頃の寝物語だったんでしょうね」いつか殺す。
「父とアナスタシアはリヴァディア宮殿で夫婦の契りを交わしたの。父親のフェリックスは高級軍人だったけど、要人は呼ばずにリヴァディアの人たちだけ招いてね。それは母親の『Anastasia』が強く希望した事なの。それはとても美しい花嫁姿で、世が世であれば戴冠式だったかも知れないのに、と出自の秘密を知る元侍従は嘆いたけど、共に汗を流した村人たちに祝って貰う方が幸せなのよ、と『Anastasia』は娘に諭したの。」
「そうか、ロマノフ朝直系の唯一の生き残りだからな。」
「長い月日を経て愛を育んできた二人は、それは仲むつまじくて、誰もが羨む夫婦だった。でも、その幸せは続かなかったの。」
「お父さんが巨乳のロシア美人と浮気したんですか?」マスター、もう喋るな。
「『Stalin』死去後に、ソ連共産党書記長に就任した『Khrushchev』が個人崇拝や独裁、そして大粛清を糾弾した『スターリン批判』を党大会で行ったの。」
「それは素晴らしい事じゃないですか。これで人々は粛清の恐怖から解放された訳でしょ?」
「世の中ってヤツは、そう簡単なものじゃないんだぜ、マスター。『昨日の敵は今日の友、昨日の友は今日の敵』なんだよ」
「そう。フェリックスは体制側で粛清の先兵として動いていたから、その立ち位置を問われたの」人生でその信念を問われるターニングポイントは何度も何度もやって来る。一筋が良いのか、己の過ちを認めてより良き道へ軌道修正するのが良いのか。「本来は『Stalin』の忠臣だったフェリックスだけど、『Anastasia』との出逢いによってソ連という国のあり方に疑問を感じていた彼は、『スターリン批判』を機に批判派に回った。だから『Khrushchev』がソ連を掌握していた10年ほどは良かった。だけど『Stalin』時代への回帰を進める『Brezhnev』がトップに立って時代は逆行し始めたの。己の罪を棚に上げて寝返った修正主義者だ、とヤリ玉に挙がったのね。フェリックスは窮地に追い込まれた。そして娘夫婦にも身の危険性が及ぶ可能性を危惧したフェリックスは、たとえ何があっても愛するロシアの地に骨を埋める覚悟だ、と言い張る父を説得した。キミたちは己の志に生きる権利がある、だけど娘の身体に芽生えた新しい命を、危険にさらす権利は誰にもないはずだ、と。」
「妊娠してたんだな、アナスタシアは。でも、もしかしてその子って・・・」
「そう、それが私なの。」

美しく整えられた庭園に咲く花々は、誰もの心を癒し華やがせる。
しかし時にその主人は、己の都合で美しき庭園を潰し、無惨な姿をさらす事も。
死に絶えたように見える花々は、その「血」を残す為に風に願いを掛けて命の種を預ける。
そしてその種は思いもつかない場所で、その気高い花を咲かせる事もあるのだ。

マスターが黙ってかすみに『SMIRNOFF』をストレートで差し出した。そうか、『SMIRNOFF』は元はロシア皇帝御用達だが、ロシア革命で創業の地を追われ、パリで『復活』したウォッカだったのだ。
「長らく子供が授からなかった父と母は、その言葉で日本行きを決めたの。フェリックスや『Anastasia』が必死に『血』を守ってきた思いを知ってるから。でもそれは皇帝家の『血』だから守る訳じゃない。歴史の激動に晒され続けて苦しみを知る『血』を、誰もが幸せに生きる世の中を創る為に後世に残す義務があるから、と」遺伝子には『思い』という情報も刻み込まれてると信じたい。「辛い決断ではあったけど、父夫婦は日本行きを決めた。でもフェリックスと『Anastasia』が、父夫婦に付き添えるのはモスクワまで。霧に霞むモスクワ空港で、四人は号泣した。それが今生の別れである事は誰もが分かっていたから。」
「泣けるね」子と永遠に別れる事より辛い事などこの世には無い。
「フェリックスや『Anastasia』がいたからこそ生まれてきたその命。そしてその命だけは絶やさないと願った二人の思いを忘れてはいけないと、その霧の中のツラ過ぎる別れの情景を、永遠に記憶に残し新しい命に引き継ぐ為に、私はかすみと命名されたの。」
「『Nicholas II』や『Alexandra』の思いも、だろうな」目の前のこの美しき女性には、いろんな人々の切なる思いが託されているのだ。「日本に逃れてからの君ら家族は幸せに過ごせたのか?」
「直接の面識はないのだけど、皇帝一家と深い繋がりのあった元ロシア貴族が、ロシア革命の時に秘密裏に日本に逃亡していたの。第二次世界大戦中は、弾圧されて特高の牢獄に入れられていたんだけど、処刑される前に日本が敗戦して何とか命を繋いだ。そして戦後その元貴族は、共産圏への密輸で財を成したの。その元貴族のはからいで、小さな屋敷を手に入れる事ができた。そして父はロシアの文献の翻訳を生業として、ささやかではあるけどなんとか生きていけたの。」
「そこにはあのストーブがあった訳ですね」
「そう。あの『Aladdin』は、私の大切な思い出なんです」ストーブの炎やその匂いは、幼き日の記憶を呼び起こすタイムマシンでもある。「その後のフェリックスや『Anastasia』の行方は知れなかったの。でもその二十数年後、ソ連は崩壊した。もちろん父は何度もロシアに足を運んだ。そして・・・父夫婦が日本に飛び立った直後に、フェリックスが銃殺に処されたというKGBの記録を見つけたの。フェリックスが慕った『Feliks Edmundovich Dzerzhinskii』が作り上げたそのKGBに命を絶たれたの。そして失意の父は、ほどなくこの世を去った」ボロボロと涙をこぼすかすみ。こぼれる涙を止める事はない。その涙が枯れるまで泣けばいい。
「その時に『Anastasia』も?」そういう質問をする自分が、とても恥ずべき人間のように感じる。
「いえ、彼女の記録はなくて行方知れずのままだったの」悲しき伝説は続くのか。
「でもお母さん、いやアナスタシアさんはどうなったのですか?」鼻をグスグスさせ、喉をしゃくりながらマスターが聞く。
「今日は母の一周忌なんです」そして子にとっても母親は宝ものだ。「私は唯一の家族を亡くした一年前、真剣に自分の命を絶つ事を考えました。母アナスタシアは私にとってかけがえのない大切な人だったから。愚かな考えである事は分かっていたけど、自我が完全に崩壊してパニックに陥ってしまって。この一年間は廃人のように生きていました。だけど・・・」
「だけど?」
「だけど今夜、母の眠るお墓に行ったら、その回りにたくさんのかすみ草が。母が大好きだった花なんです。私の名前と一緒だから母はとても愛していて、いつも家に飾られていた花。誰が植えたか、野生のものかは分からない。私は生きる望みも失っていたけど、墓地の片隅で雨に打たれながらも、このか細い草花は一生懸命生きている。母も、またその母も、子を守る為に一生懸命生きた。私はいろんな人が、私を守ってくれてきた事を忘れていた事に気付いたんです。そして自分の命は自分だけのものだけではない事に。」
「そう言えば・・・かすみ草の花言葉は『感謝』、だったな」
「フェリックスや『Anastasia』と父夫婦が、私にその命を預けた今夜と同じ霧雨の日を思い描いて、この霧雨の中を歩いて来たんです。不思議に雨に打たれても、身体は暖かいままだったわ。」
「そうか、でもあれを見てごらん」いつの間にか夜明けだ。「さっきまで街に掛かっていた霧も晴れてきた。その向こうには、太陽が顔を出しているぜ。君は霧の日に命を受けた。でもこれからは、ヒマワリと呼ばれた『Anastasia』のように、太陽を向いて生きていくのさ。」
「かすみ草はヒマワリへ、なんですね」初めて見せたその美しい笑顔は、誰もの心を惹き付ける太陽の輝き。
「もう夏はすぐそこです、かすみさん。『コンドル』は、快晴の日でも貴女をお待ちしてますよ」
「その日までここがあれば、の話しだけどな」
「ジェイさんは今日をもって入店禁止です」

薄汚れた街の片隅の朽ち果てた酒場にだって、たまには花があっても構いやしない。

黄金の猫

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

「ところでジェイさん」グラスを拭く手を止めて話し出したのは、ここのマスターだ。「最近、パッタリと咲子さんを見なくなりましたよね。どうしちゃったんでしょうね?」
「咲子?ああ、水産会社のOLの子か」そう、咲子は半年ほど前までは週に一回は呑みに来ていた。「天真爛漫で良い子だったよな。貿易事務だったのに営業を希望して移ったとか言ってたから、慣れない仕事でヘトヘトなんじゃないのか?」
咲子が初めてコンドルを訪れたのは、ちょうど去年の今頃だった。恰幅の良い年輩の男性と一緒に連れ立って。二人は親子ほどにも歳が離れているように見えた。いや、酒場ではよくある光景だ。もちろん詮索するような野暮はしない。いつも笑顔で屈託のない彼女の人柄に、いつしか男女を問わず客の誰からも愛されるようになっていった。それだけの話しだ。
「よし、思い切って電話してみましょう。なんだか久々に会いたくなっちゃった」嬉しそうにマスターが携帯のダイヤルボタンを押している。「いや、だってね、こんな寒い夜はいつだってジェイさんしかいないから、笑顔が魅力の咲子ちゃんでもいなきゃますます店が冷え切っちまって、客が寄りつかなくなっちゃうからね。」
「何だそりゃ」『PLATTE VALLEY』を一気に煽る。「誰も客が来ないのは、アンタのフェロモンが出てないからじゃないのか。だいたい、こんなつまんない酒場に毎晩呑みに来てる俺に感謝くらいしろよ。」
「そりゃあ、ありがた迷惑ってヤツですね。ジェイさんのようなコワモテな客がいつも睨み効かせてるから、女性客が怖がっちゃうんですよ」相変わらずクチの減らないヤツだ。「昨夜の女の子だって泣かしてたじゃないですか。あんなに若くて可愛い女の子を・・・。おっ、繋がった」
彼女は俺が泣かせた訳じゃない。気丈な女の子だが、子供ができたの、でも産めないの、とか何とか一人で勝手に泣き出してしまっただけだ。俺が詳しい事情を聞かぬままに。ま、酒場ではよくある話しだが。
「咲子ちゃん、今から来るそうですよ。決算やらなんやらで忙しかったたみたい。でも一段落ついたようですね」マスターが本当に嬉しそうな表情を見せる。「それとちょうど渡したいものがあるからって言ってましたけど」
そろそろ切り上げようと思っていたところだけど、彼女が来るのなら、あと一杯だけ呑んでいくとするか。

「久しぶり、マスター。あれ、ジェイさんも・・・。いつもその席で呑んでるんだね」咲子だ。入ってくるなりハジける笑顔。決して美人とは言えないが、魅力溢れる女性だ。「電話タイミング良かったよ、マスター。昨日までバタバタしてたからさ。あ、そうそう、これ見てよ。」
咲子が差し出したのは、高さが20センチくらいの金色に輝くネコの像。
「ジェイさん、これ何か知ってる?」何、と言われてもただのネコにしか見えない「ただのネコちゃんじゃないのよ、これは。パステト女神って言うの。エジプトの神様なの。」
「ふーん、じゃあ日本の招きネコみたいなものか」そのネコの像を手に取ってみた。「あれ、えらく軽いな。これ金じゃないのか。まあ、ただのOLのお前が黄金像を持ってる訳がないけど。」
「そりゃあ私はただのOLですけどね」咲子がちょっとふくれて見せた。「これは木像に金メッキしたものだけど、考古学的にはスゴいものなのよ。博物館レベルの価値があるんだから。」
「ホントに博物館から盗んできたんじゃないだろうね。咲子ちゃん、前も僕の『Zippo』を勝手に持っていったし・・・」とマスター。
「ちょっと待ってよ、マスター」慌ててやがる「あれは、スターリングシルバーとか何とかをマスターが手に入れたから、もういらないからってくれたんじゃないの。ヒドいなあ」
「いや、確かにあれは咲子ちゃんにあげたんだけどね。まさか君の彼氏のものになってるとは思わなかったよ。それも次の日に」マジで怒ってやがる。
「ゴメンゴメン、だって彼、『Zippo』好きだったから、速攻で取られちゃったんだよ。でもアイツにあのジッポあげたのは、今考えるとなんかムカつくな。今頃何してんだろう、アイツ?」
「星の数ほどあるお前の男性遍歴、いや、失恋経験の話しはもう良いから」優しすぎて男に捨てられてばっかりの咲子に、ちょっと毒を吐いてみた。「そのパステト女神の話しを聞かしてくれよ。」
「うん、これはね。ある男性から退職金代わりに貰ったの。いや、手切れ金かな」少し咲子の瞳が少し曇った。「ここのところ、このネコちゃんをボーっと眺めて毎日過ごしてたの。どこにも呑みに行く気にもなれなかったし。でも、もういらないから、この店の飾り物にでもして貰おうと思ってさ。」
「何か訳ありなんだな、その金ネコは」女という生き物は、いくら男に捨てられても学習しやしない。でも男だって一緒か。
「うん、私、水産会社で営業をしてるでしょ。その取引先の一つに総合商社があってね。そこから持ち込まれた結構大きな共同事業の話しがあってさ。それが、エジプトでカラスミ作ろうってヤツでね」マスターが黙って差し出した『ABOTT』を咲子が喉に流し込む。コクに欠けるが旨みタップリの俺も大好きなエールビールだ。
「エジプトでカラスミ?なんか想像できないな。えらく唐突すぎて」そうは言ってみたものの、酒のアテの話しには俄然興味が沸いてしまう。
「東南アジア辺りでよくある話しのように、そういう食文化が全然無いところを生産基地化しようって訳じゃなくてね」今夜の咲子は知的に見えてしまう。「エジプトでは古代からカラスミを作っていたらしいの。そして今でも食べられているの。もちろん日本のカラスミとは製法が違うから、そのまま輸入してもまず売れないけど、生産加工技術を指導して商売に出来ないかをアレクサンドリアまで現地調査に行ってきた訳。そこで現地コーディネーターをしている桂木ってもう40を超えてる男性と仕事をする事になってね・・・」
「寝た訳だ、要するに」と直球で。「そして相変わらずのオヤジ好き」
「なんでいきなりそうなるのよ。ジェイさんっていつもそればかり」咲子は赤面すると意外に可愛く見える。「恋に落ちちゃったのは確かなんだけど・・・。マスターやジェイさんみたいに夜に生きる男の人たちと違って、ハツラツとしてて、爽やかで、でもどこかに影があるんだけど・・・。とにかくスゴく魅力的だったのよ。仕事も精力的で頼りになる男性だったの」
「僕もジェイさんもエラい言われようですね」マスターが苦笑している。「でも咲子ちゃんだって夜に生きてる気がするんだけどね。」
「そうかも知れないけど、だからなんだけど、そういう太陽のような人に惹かれちゃったのよ」咲子の言う事も理解できる気がする。「でも実際は太陽なんかじゃなくて、山師、いえ、詐欺師だったの、あの人は。」
「ちょっと待って」咲子の話を腰を据えて聞いてみたくなった。「話しがオモシロくなってきそうなんで、『HERRADURA』をストレートで。気付けだからゴールドじゃなくてシルバーで」

あまり暖房の効かないコンドルに、静かに『EAGLES』の『DESPERADO』が流れている。
ネオン輝く窓から通りを見下ろすと、人通りもないようだ。暖かい家が恋しくなりそうな夜。
だけど吹きすさぶ寒風も、酒のアテにはちょうどいい。

「桂木はね、ギザっていうピラミッドで有名な街でこのネコちゃんを手に入れたの」クフ王のピラミッドとかは俺でも知ってる「と言っても土産物屋で買ってきたんじゃないのよ、もちろん。当然ギザは観光地化してるんだけど、その近くにはまだスラム街があってね。遺跡が眠るその土地の上で貧しい人たちがたくさん暮らしているの。カメラをぶら下げた日本人や欧米人が歩くその横でね。偽善かも知れないけれど、やっぱりその光景はカルチャーショックだったわ」咲子がバックから『KOOL』を取り出し、一本火を点ける。メンソールなど吸うくらいなら、ハッカガムでも噛んでろと言ってやりたいところだが。「でも、そんなつまんない同情心など受け付けないくらい彼らはたくましいの。生きる糧は我がでちゃんと確保している。例えそれが法の枠を少し外れてもね。」
「もしかしてピラミッドの盗掘でもするの?」マスターは興味津々のようだ。そして俺も。
「そう盗掘。でもピラミッドじゃない」咲子が悲しい目をする。でも生まれた場所によっては、モラルだけでは生きていけない事も彼女は知っている。「彼らの住む今にも壊れそうなその家のすぐ下には、たくさんの遺跡、いえ、財宝が眠っているの。もちろんそれは国家の財産だから、例え自分の土地であっても勝手に掘り出してはいけないんだけどね。それは歴史的に大発見とも言えるスゴく価値のあるものも時には掘り出されるの。でもそれはブラックマーケットを経て闇のルートを通り国外に流れちゃう。エジプトの人々が目の当たりにする事無くね。悲しい事だけどそれが現実。でもだれも彼らを責める事なんて出来やしない。」
「なるほどね」気付けのつもりだったが、『HERRADURA』は腰に来る。今夜は無事に帰れるだろうか。「で、掘り出したその金ネコを闇で買って、横流ししてた訳だ、その桂木ってヤツは。」
「そんなセコい小悪党じゃなかったのよ、彼は」黙ってマスターが咲子にエジプトのビール、『STELLA』を。独演料といったところか。エジプトはイスラムの国だから、アルコールは呑めないけど、ビール発祥の地でもある訳だ。「手に入れたこのネコちゃんを利用して、壮大な詐欺を企てたの。いろんな人を巻き込んでね。」
「それはどういう」不謹慎だけどワクワクする。
「彼はエジプトに発掘調査に来てた日本の大学に目をつけたのよ」

アルコールが体を回り、浮き上がるような酩酊感が。
だけど革ベルトで縛り付けられたようにイスに腰が張り付く。
この寒い夜にエジプトの話しは、なんだか妙。
だけど身体に灼熱感が広がるのは、テキーラのせいか、それとも怪しげな咲子の話しのせいか。

「エジプトの遺跡発掘調査ってね。その筋で有名な大学だけじゃなくて、結構いろいろと来てるのよ。ハッキリ言えば観光を兼ねてね。例えれば政治屋さんの視察旅行みたいなものよ。」咲子が鼻で笑う。「桂木はある地方大学の発掘隊に有名なエジプト人考古学者を紹介して信用させた後に、彼の鑑定書を偽造して、プロジェクトを持ちかけたの。いえ、発掘の為の先遣隊、交渉団と言った方が正しいね。そんなに簡単にはエジプト政府の発掘許可は下りないから、コネクションを駆使したりする必要がある訳。そこでエジプト語が話せて現地のコネクションを持つ桂木は頼りになる存在だから、そこを逆手に取ったのよ。このネコちゃんを、クレオパトラなんかと並んでエジプト三大美女と呼ばれたネフェルタリ王妃の副葬品だという事にしてね。まだ発見されてない財宝の間を見つけた証拠だ、という話しをでっち上げて。それでもまともな発掘隊なら見抜くところだけど、そこは宗教系のワンマンオーナーが経営する大学で、知名度を上げる為の発掘だから、功を焦って見事に罠に引っかかっちゃったの。有名なネフェルタリ王妃にまつわる新発見なら、エジプト政府の発掘許可も下りるだろうと考えたのは当然の事だけどね。」
「それでそれで」マスターが身を乗り出す。まったくミーハーなヤツだ。俺も人の事は言えないが。
「これは大規模な発掘調査になるから、いわゆるロビー活動の為に大金がいるからって億の金をせしめたのよ。別の大学にも話し持っていって天秤に掛けてるのだとプレッシャーを掛けてね。」そんなにタバコばかり吸ってると、その美しい髪に紫煙の匂いが付いてしまう。「そして金を引き出した後は当然ドロンよ。今頃はハバナ辺りでシガーでもくゆらせてる事でしょうね。」
「確かにソイツは悪党だけど」俺も視点が怪しくなってきた。「君は惚れた男の悪事に対して腹を立ててるの?不謹慎だけど部外者の俺から見れば、大胆不敵でなんだか魅力的に感じてしまうぜ。なんて言ったら怒られそうだけど。」
「彼は詐欺の仕込の為に私に近付いてきたの。私が働く水産会社が、その大学と水産物の養殖で共同研究してるのを初めから知ってたの」咲子が自嘲気味に笑う。「私が懇意にしている先生の紹介で、桂木は考古学の教授とコネクションが繋がったのよ。私のパートナーである総合商社の現地駐在員から私がエジプトに来る情報を得ていて、近付いてきたって訳。遠い地で優しくされ舞い上がって、詐欺の片棒担いじゃった私って、本当に間抜けな女だよね。」
「間抜けな女ってのは否定しないけど」俺から見たら咲子は可愛い女でもある。「咲子の社会的立場も滅茶苦茶になってしまった訳だ。警戒心が足りなかったのは否定できないけど、とんだとばっちりを食っちまったんだな。」
「立場とかはどうでもいいの」咲子も酔いが回ってるようだ。マスターなどいつの間にか奥の厨房で眠りこけてやがる。「納得できないのは、許せないのは、スゴく陳腐なんだけど、未だに彼を憎めない事。いえ、まだたぶん愛してるのだと思う。私を利用して逃げていった彼の事をね。」
「確かに陳腐かも知れないけど、それが咲子の咲子たる所以だろう。騙された人たちには悪いけど、少なくとも客もいなくて寒かったこのコンドルにとっては、間抜けで豪快な話しを聞かせて貰って、少しは盛り上がって暖が取れたぜ。まあハードな酒のせいかも知れないけどね」
「いつもはムカつくジェイさんだけど、たまにはその口の悪さが心地良いね。あれ、私も酔っちゃったみたい。」
「そうそう、酒場にネタを提供するのも、常連客の立派な使命だから。さあ、最後に俺が呑んでるこの『HERRADURA』で締めな。」
「腰落としてなんかしようってジェイさんの魂胆は、100年前からお見通しよ」
「初めから罠がバレてりゃ、後で知って悲しむ事も無いのさ。」
「そうね。では今夜は新しいネタづくりの為に乾杯ね。」
「乾杯」

グラス越しに金ネコ、いや、パステト女神がウインクしてやがる。

ある満月の夜に

俺の名前はジェイ。いや、本名では無いのだが、酒場を呑み歩いてるうちにいつしかそう呼ばれるようになっちまった。
まあ、そんな事はどうでもいい。取るに足らないつまらない事だ。

その昔は活気に溢れていた盛り場の片隅。
古ぼけたビルの階段を昇って行くと、そこにその酒場はある。店の名はコンドル。
ここにはいっときの酩酊を求めて、どこからともなく訳ありげな人々が集まってくる。
さあ、今宵も彼らの話しに耳をそばだててみるとするか。

『コンドル』のドアを開けると、カウンターの真ん中に若い男性客が一人だけ。相変わらずヒマな酒場だ。
「ああ、ジェイさんじゃないですか」マスターが何かホッとしたように声を掛けてきた。「良いところに来てくれましたよ。」
「マスターよ。まずは『いらっしゃいませ』と挨拶するのが接客業の基本だぜ」マスターは良いヤツなんだが、すぐナアナアになってしまうところが玉に瑕。
「ああ、すいません。いらっしゃいませ。いや、まあそれはどうでも良いんですけどね」どうでも良くない「いやあ、健雄くんがここに来るなり固まっちゃってですね。もう二時間も。」
「二時間!?」パントマイムの練習でもしてるのか?確かにいつも元気な健雄が微動だにしない。よく見ると青ざめているようにも見える。「おい、健雄。どうしたんだよ。おい、おいってば。」
「ホントどうしちゃったんですかねえ、彼は?」ちょっと心配そうなマスター。客に対して親身なところは彼の魅力でもあるが。
「ちょっと荒っぽいけど・・・」健雄を椅子ごと思い切り蹴倒してやった。不意を付かれた健雄はゴロゴロと転がって柱にぶつかった。
「痛え!何をするんですか、ジェイさん!」顔を真っ赤にして怒ってやがる。顔色が戻って良かったな。
「何度声掛けても返事しないからさ。『幽体離脱』中かと思ったぜ」
「『幽体離脱』なんかしてませんよ!ただちょっと気になる事があって・・・」
「いったい何があったの、健雄くん?」マスターが『ABOTT』を差し出す。「これ、僕の奢りだから。取りあえず元気出しなよ。」相変わらず商売下手。

「実はですね、あまりにも凄い出来事に遭遇しちゃって・・・」健雄ごときの凄い事なんていうのは、道で転けたくらいの事だろう。「僕はよくクラブに行っているんですけど、いえ、お姉さんがいる方じゃなくて、もちろん踊る方のクラブなんですけどね。毎週末に通ってるからスタッフとも顔馴染みだし、常連客とも仲良いから、踊りにいく時はいつも一人でなんですよ。で、あれは一ヶ月ほど前の金曜日の事です。そう、今夜のように雲一つ無い、満月が印象的な夜でした。時間は日付を超える辺りだったと思うんだけど、ひとしきり踊った後にラウンジの方で中休みを取ってたんです。隣の席をふと見ると、ちょっと神経質そうだけどスレンダーで綺麗な女性がいたんです。若い頃の『Michelle Pfeiffer』に似てるんですよ。美人でしょ?猫系のオーラが出まくってました。その美しさにも惹かれたんですけど、それ以上に彼女の生活感の無さと言うか、全体的に漂うどこか刹那的な雰囲気に目が釘付けになってしまったんです。でも皆が楽しそうに踊ってるこの場から、完全に浮き上がっていたんですよね。ジッとダンスフロアを見つめ続けているので、連れが踊り終わるのを待っているのかとも思いましたが、どうやらそうでも無さそうなんです。なんて言うか、標的に焦点を合わせるクールな猛獣のような感じと言うかですね。」
「コードネームは『ジャッカル』というところだね。いや『デューク東郷』かも」なんだかマスターが嬉しそう。「僕は昔から暗殺者ものが好きでねえ。『必殺仕事人』とか『ザ・ハングマン』とか、毎回ビデオに録画して見てたんだよ。」
「ちょっとそれは、僕の世代で分からないんですけど・・・」そりゃそうだろう。「彼女の視線の先を追ってみると、そこにはここのクラブで『K』と呼ばれる男が立っていました。『K』は背が190センチくらいあって肩幅も広い凄くガタイの良い男です。そしていつも黒い革のロングコートを着ているんです。スゴく暑いクラブの中でですよ。僕が知る限り『K』が踊る事はなくて、ダンスフロアからVIPルームに抜ける通路の入り口付近に立ってるだけです。たまにVIPルームに出入りする客と何かこそこそ話していて怪しげなヤツなんですよ。クラブの常連客は『K』はバイニンだと噂していますが、彼からドラッグを買ったという話しは聞かないので、本当のところはどうだか分かりませんけどね。その『K』に殺意のこもった、と言ったら言い過ぎかも知れませんけど、鋭い視線を投げつけてるんです。」
「彼女が『K』の昔の女だった、という線も考えられなくはないね」マスターが鋭い指摘。「僕もいろんな女性を泣かせてきたから、よく分かるんだよなあ。」それは絶対に違う。
「そう取れなくもないんですけど・・・。もっとこう、なんて言うか、使命を帯びてる、みたいな雰囲気に感じましたね、僕は。それくらい冷徹な視線だったんですよ。傍目でみている僕でさえ、ちょっと恐怖を感じたくらいなんですけど、同時に惹かれてしまうと言うかですね。僕が見ている事に気が付いたみたいで、キッと睨まれました。慌てて目を反らしたんですが、彼女はサッと立ち上がってツカツカと僕のところまで歩いてきて、いきなりバチンと顔を平手打ちされました。もう唖然ですよ、こっちは。ポカンと口開けたアホヅラ晒してね。すると彼女は僕の手を取って、踊るわよ、と言ってダンスフロアに引っ張っていくんです。もうこっちは何がなんだか分かりませんよ。ダンスフロアに出ると、彼女はジーンズの尻ポケットに突っ込んでたキャップを目深にかぶって、僕の首に両手を回して濃厚なチークダンスです。胸がデカかったから、その感触が嬉しかったんですけどね。彼女は僕をリードしながら少しずつ『K』の方に近付いていくんです。なんかヤバいな、と思ったんですけど、不思議に抵抗する事ができないんです。そして『K』のすぐ側まで移動したんです。そしたら彼女がキスして、と言うんです。エーッて感じですよね。唐突だし。僕がモジモジしてたら、彼女が両手で僕の後頭部を抱え込んでブチュウですよ、それも舌をねじ込んできて濃厚なフレンチキスです。そう言えば、フレンチキスを軽いキスの事だと誤解している人って多いですよねえ。」
「マスター。健雄の話しにちなんで、俺にフレンチキスを」
「やだなあ、僕にそんな趣味は無いですよ、ジェイさん」引いてやがる。
「カクテルの『フレンチキス』をくれと言ってるんだ!」
「なんだ。安心しましたよ」アプリコットブランデーベースのほろ苦くて甘い香りは、まさに『フレンチキス』。
「彼女のキスに朦朧としていたら、僕の後ろの方からウッといううめき声が挙がって、その後にドサッと何かが倒れる音がしたんです。慌てて振り返ると『K』が倒れていました。呆然としていると彼女が、早くこの男を引っ張り出すのよ、と僕に命じるんです。何がなんだか分からなかったんですけど、言われるがままにズルズルと『K』の足を引っ張って、非常口から外に出ました。そこはクラブの裏路地なんですけど、彼女はその蓋を開けて、と言うんです。指差したのはマンホールの蓋。スゴく重い蓋をズルズルとずらしながら、やっとの思いで開けると、なんと彼女はマンホールの中に『K』を落とし込んだんです!大雑把に見えるかも知れないけれど、ここに捨てたらまずアシがつかないのよ、なんて言うんです。ちょっと待ってよ、これはどういう事だと僕は大騒ぎしたんですが、早く逃げなきゃヤバいわよ、貴方ももう殺人の片棒担いだんだから、と彼女はクールなんです。ハッと気が付いて無我夢中に走りました。彼女はどうしたかって?そんな事なんか知りませんよ。もうあれくらい全力で走り続けた事は、生まれて初めてだったですね。30分ほど走り続けて、家の前まで来た時は、もうしゃがみ込んじゃってしばらく立てませんでしたよ。」
「ちょ、ちょっとドアの鍵を閉めてくるね。こんな話しほかのお客さんに聞かせられないからさ」血の気が引いて真っ青になっているマスター。別に鍵を掛けなくても、こんなヒマな酒場にどうせ客なんて来やしない。「もうそれって犯罪だよ、健雄くん。なにもここで打ち明けなくても・・・」
「話してみろって言ったのはオレらだぜ、マスター」確かに緊張が体を走る。「失恋話でも、仕事のグチでも、たとえセンセーショナルな懴悔話でも、黙って聞いてやるのがあんたの仕事だぜ。」
「バーテンなんてやるもんじゃないって、つくづく思いましたよ、今日という日は」人並み外れた酒好きで、周囲の反対を押し切って開店したクセに。
「すいません、マスター。僕がこんな話しをできる場所ってここしかないから・・・」仕方ないぜ、健雄。誰にも話せない話しができるのは、酒場か教会しかありやしない。「それでドアを開けたら明かりがついてるんです。そして女物のスウェードのショートブーツが。部屋には、そうです、あの女がいたんです。ショーツにTシャツというラフな格好で『Budweiser』呑みながら、くつろいでやがるんです。何で君はここにいるんだ、何で僕の家が分かったんだって、僕が喚き立てると、これよって渡されたのが僕の財布。どうやら僕が『K』を引っ張ってた時に、尻ポケットの財布を抜き取ってたみたいなんです。財布に入っていた免許証で僕の家が分かったんでしょう。なんてヤツ!そのうえ、今夜は泊めて貰うわよ、って・・・。もう唖然、でしょ?」
「健雄の部屋に女がいるって事自体が、確かに唖然だな」
「茶化さないでくださいよ、ジェイさん」事実だろ。「その日はあまりにもいろいろあり過ぎて、僕も疲れてたんでしょうね。いつの間にか眠りこけてしまってて、気が付いたら朝でした。そこには窓を開け放って、手摺りに持たれてコーヒーを飲む彼女がいました。朝ご飯できてるよ、って言って、それは美味しい朝食を作っててくれたんです。一瞬昨夜の事も忘れて、とても幸せな気持ちになりましたよ。このまま二人で、ここに暮らすのも良いかなって。そしたら電話掛けたいから携帯貸してって彼女が言うんです。携帯を渡すとどこかに掛けて、何も話さずにすぐに切っちゃいました。ちょっと不思議に思いましたが、それはあまり気にせずに、幸福感を満喫してニヤニヤしながら食後のコーヒーを飲んでいたんですよ。でも落ち着くと昨夜の事件の事をちゃんと聞かなきゃいけないと思って、どういう事か説明しろ、と言ったんです。すると彼女はそんな悠長な時間は無いわよ、貴方が今ここで死にたいのなら別だけどね、と言ってニヤッと笑うんですよ。」
「ど、どういう事!?」相変わらず肝っ玉が小さいマスター。
「彼女は僕に何も説明せずに自分の持ち物らしいゴルフバッグを肩に掛けて、サッサと部屋を出ていくんです。慌てて僕も着いていきましたよ。そして彼女は僕のアパートの通りを挟んだ向かいにある5階建ての雑居ビルへ入っていきました。そのままエレベーターで屋上へ。僕の部屋が見える場所に陣取ると、彼女はなんとゴルフバックからライフルを取り出したんです!そして彼女が、この『M40A3』は頑丈で高精度なのは良いんだけどゴツゴツして可愛くないしメチャクチャ重いんだよねえ、と訳の分からない事言いながら銃口にサイレンサーをねじ込んでいるんです。僕が硬直していると、彼女が来た来たって言うから指差す方向を見ると、僕のアパートの前に黒塗りの『Mercedes Benz』が止まったんです。そして中からコワモテな人たちが三人降りてきて、僕のアパートに入っていきました。あいつらは誰なんだ、と彼女に聞くと、ちょっと黙ってて、と言って、ライフルを僕の部屋に向けて構えてるんです!拳銃を持った男たちが、ドアを蹴破って入ってくる様子がハッキリ見えました。全員が部屋に入ってきたのを確認すると、彼女はスコープで狙いを定めて一気に三連射!男たちはドサドサッと倒れました。彼女は、距離は大したことはないけど連射はスゴいでしょ、とか言って得意がってるんです。もう僕は、あうあうって感じで声も出ません。そしたら、行くわよって彼女が僕の手を引っ張るんです。ライフルはその場に置いたままで。そして今度は階段で一階まで降りて、入口の陰に二人で隠れました。すると『Mercedes Benz』に残ってた運転手役の男が降りてきて、僕のアパートに入っていきました。いつまでも仲間が戻ってこないんで、不審がったんでしょうね。その隙に彼女が『Mercedes Benz』の下に潜り込んだんです。ちょっとしてから這い出てきた彼女は、逃げるわよって言って、また僕の手を引っ張って雑居ビルの裏口から出ました。そしてちょうど停留所に停まってた路線バスに乗り込みました。タクシーとかで逃げなくちゃ危ないよって言ったんですけど、彼女はこっちの方が意外に見つからないものなのよ、と言って、僕の肩にもたれ掛かって、いきなりスヤスヤと眠り始めたんです。神経が図太いというか何と言うか・・・。」
「そう言えば『卒業』っていう映画でも、バスで逃げてたよな」
「そんなロマンティックな気分じゃないですよ、ジェイさん」そりゃそうだ。拳銃持って追いかけられてるんだし。「それから15分ほどしたら終点である繁華街に着いたんです。彼女を起こしてバスを降りると、オナカ空いたからゴハン食べよって僕の腕に自分の腕を回してきました。僕はもうメシとかそんな気分じゃなかったんですけどね。でも彼女と歩いてると誰もが振り返るんですよ。あんなにキレイな女の子は、そうはいないから当然ですけどね。自分が置かれてる状況も忘れて、思わずニヤけちゃいましたね。ここ美味しいんだよ、と彼女に言われて、オシャレなフレンチスタイルのカフェに入りました。オーダー取りに来たイケメンのギャルソンも、彼女の美しさに目を奪われてました。そして何度も僕と見比べて。何でこんな彼女と釣り合わない野郎と一緒にいるんだ、と不思議がってたんでしょうね。あっ、何か思い出して腹立ってきた!」
「これでも呑みな。アタマを冷やすには最適だぜ」カウンターにおいてあった『GET 27』をショットグラスに注いで健雄に渡した。
「ウッ、エグいっすねえ、これ。でも確かにアタマは冷えるけど」でもオレは嫌いだが。ペパーミントなんて男が口にするものじゃない。「僕は何も食いたくなかったんでコーヒー飲んでたんだけど、彼女は元気にカルボナーラをパクついてるんです。そして彼女は、食べ終わるとおもむろに話し始めたんです。昨夜からの何が何だか分からない出来事の訳を。彼女が言うには、『K』は実は街のバイニンとかそんなレベルの小者じゃなくて、某国の大使館付武官らしかったんです。それであんなにゴツかったんだなと、ガテンがいきました。そして『K』は裏の顔も持っていて、あるアジア系の裏の組織と組んで、新種の麻薬の商売を行っていたんです。それはドーパミンという脳内麻薬で、いや、覚醒剤や麻薬なんかもそれに近い分子構造を持っているんですが、それそのものらしいんです。それにやはり脳内麻薬であるセロトニンを組み合わせてるらしいんですけど、その加工技術と二つの脳内麻薬を繋げる何かの化学物質がスゴい発見らしくて、両方の麻薬のパフォーマンスを1+1=3という感じ引き出すらしいんです。快感物質と鎮静物質を組み合わせると、その相乗効果はスゴいらしいんですよ。コカインとヘロインを併用するスピードボールなんかが有名ですよねえ。えっ、マスターは知らないんですか?よく考えてみれば当たり前か。それは錠剤になってるらしくて、無味無臭だから麻薬犬にも嗅ぎつかれないらしくて、これが出回ると世界中大変な事になりますよね。だけどもっと問題だったのは、その製造方法です。その脳内麻薬を人工的に作るのではなくて、直接人間の脳から抽出するんです!その原料となるのは、身寄りのないホームレスや家出してきて街をフラつくストリートキッズたちなんです。そんなヤツらは街から消えた方が世の為、なんて言う人もいるでしょうが、人の命がそんなに粗末に扱われて良い訳がありませんよね。『K』は彼らを拉致しては、外交官特権を利用してアジアの某所にあるアジトへ連れて『輸出』していたんです。まるで食肉工場に送られるブロイラーのように。」
「そう言やあ昔どこかの国で、嫁を大釜にぶち込んで溶かして、石鹸作ったって話しがあったよな・・・」
「不気味な話しをしないでくださいよ、ジェイさん」お前の話も充分不気味だ。「彼女が僕に革の財布のようなものを見せるんです。手に取って開いてみると、そこには金色に輝く菊のバッチが貼られていました。そして『内閣情報室保安担当特別情報官』と書かれてあったんです。何故か名前は書かれていませんでしたが。要は国内担当のスパイだったんですね。『007』のように『殺しのライセンス』と言うか、殺人権限を持っているらしいんです。もちろん国益に関わる事に関してのみらしいんですけどね。それであんなに次から次と・・・。彼女はずっと『K』を追ってたんですね。」
「スパイって日本にもいたんだ・・・」マスターが絶句している。当然だが。
「何故ヤツらが僕の家が分かったかというと、彼女が僕の携帯使って掛けた先が『K』の携帯だったんです。始末した『K』の携帯をいつの間にか取り出して、クラブに置いてきたんですね。手グセが悪いと言うか、職人技と言うか。僕の番通から、ヤツらが裏のルートで、僕の住所なんかのプロフィールを調べ上げる事を予想してたんですね、彼女は。僕は言ってみれば、フライフィッシングのハエのようなものですよ。ホントヒドい女だ。そして携帯貸してって彼女がまた言うから、ここに再びヤツらをおびき寄せるのかと思って、ゾッとしたんですけど、二回も同じ手に引っ掛かるほどヤツらもバカじゃないでしょ、と彼女が笑うんです。よく考えたらそれもそうですよね。で、渡したらどこかにダイヤルして、コード『CCDO』でお願いします、とか言ってました。何かの略みたいなんですが。そして、分かりました、とだけ言って電話を切りました。じゃあわたしは最後の仕事をしてくるから、と言って席を立つんです。ちょっと待ってよ、と食い下がったんですが、そんなに貴方は死にたいの?と言われて僕は黙り込んでしまいました。そして店を出ていく彼女の後ろ姿を呆然と見送るだけだったんです。ふと思いついて、携帯の発信履歴を見てみると・・・110番でした。」
「ええっ?」声が裏返るマスター。
「家に帰るのもヤだったんで、それからしばらくは友人の家に泊めて貰いました。でもいつまでも帰らない訳にも行かないので、一週間ほどして怖々戻ったんです。ドアを開けてみると、なんとそこに彼女がいたんです。その場に立ちつくす僕に、彼女は淹れたばかりだよってコーヒーを手渡して。そして、もう全部終わったんだよって彼女が言うんです。彼女が言うには、『Mercedes Benz』の下でゴソゴソしてたのは、発信器を付けてたらしいんです。仲間が全滅して慌てた残党が、アジトに戻る事を計算してたんですね。携帯で確認してたのは、そのアジトの場所だったらしいんです。そしてライフルを置いていったのは、再び報復なり調査の為にヤツらが戻ってくる事を予想してたから。僕のアパートを狙う狙撃ポイントは自ずと特定されるから、そこにとても普通の女の子じゃ持てない重さの『M40A3』を置いていけば、暗殺者はゴツい男だと思うのが自然です。アジトは繁華街の近くにあるマンションの小部屋でした。そしてそのマンションのMDFと呼ばれる電話回線配線分配装置に分岐点を作って、バイパス線を造ったらしいんです。盗聴も目的の一つなんですが・・・。残党の一人が、女の子を呼ぶ電話をした時に業者の振りをして受けたんですね。残党が掛けた業者とは、風俗屋、つまりデリヘルです。彼女はデリヘル嬢を装って、堂々と部屋に入っていったんです。部屋にいたヤツらを全員射殺、戻ってきたヤツらも全員射殺です。生かして捕まえて、ルートを調べたりしないのか、と聞いたら、どうせこういう人間は、国で家族を人質的に取られているから絶対に本当の事は吐かないし、官憲に渡したところで刑務所出てきたら同じ事の繰り返しだから、全部殺しちゃった方が世の為なのよ、と言うんです。ちょっと背中に冷たいものが流れましたが、そう言われたらそう言う気もしました。」
「闇から闇へ、か」オレが死んでも誰も気付かない、というのと一緒かも知れない。
「そして彼女は、今回もいつも通りの害虫駆除でつまらない仕事だしイタチごっこなんだけど、貴方に会えたのはちょっと楽しかったよ、頼りないところはアレなんだけどね、とウインクするんです。そのまま部屋を出ていこうとする彼女に、君の名前を教えてくれって叫んだんです。そしたら彼女は、もし今度の満月の晩に出逢った夜のように雲一つ無かったら、新しいその日を迎えるその時に電話するわ、と。それが・・・」
「今夜だな、その満月の晩ってのは」窓から見える満月は、この薄汚れた街の空に浮かんでるとは思えないほど、青く妖しく輝いている。
「そうです、ジェイさん。今夜なんです。そしてその時間は・・・」
カウンターに置かれた健雄の携帯が青く輝き、『Mr. Moonlight』が流れる。

健雄よ。今夜は中秋の名月だぜ。
月夜の夜に、ちょっとエキセントリックだけど、可愛い仔猫に逢っておいで。
人生ってヤツは、多少破天荒でも、平穏よりはナンボかマシさ。